東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

禅師廓庵のアプローチ④

昨日のつづき

 

 廓庵はまず、絵や夢でものを考える子どもたちと同じ無意識の言語を試みた。 なぜなら、それが最も深いものだからである。 そして廓庵は十牛の図を描いた。 だが、廓庵は不満足を感じていた。 そこで廓庵はその不満足を埋めるために、付録として十の「詩」 をつけ加えた。

 

 詩は無意識と意識の中間的なものであり、それはひとつの懸け橋になる。  この中間というのは、ものごとが完全に闇に包まれてもいず、完全に光の中にもないおぼろげな場所、ちょうどどこかその中間という意味である。

 

 だから、散文が駄目なところでも詩が表わせることができるのはそのためである。 散文はあまりにも浅薄すぎるが、詩はもっともっと深く進むことができる。 詩はより婉曲であるが、より意味深く豊かである。 だが、なおかつ廓庵は満足できなかった。

 

 さらに、廓庵はこの散文に注釈をつけ加えた。 つまり、最初に廓庵は画家や彫刻家や夢想家たちと同じ、図という無意識のあらゆる芸術の言語を綴った。 それから、詩人たちの言語である無意識と意識の懸け橋である中間的な詩を書いた。 そして、それから論理的で理性のアリストテレス的な、意識の言葉である散文を綴った。

 

 このようにユニークなアプローチをする人物は他にいない。 誰ひとりそれをやった者はない。 仏陀ですら生涯、散文のみで語った。 ゲーテは詩をうたった。 だが、ひとりの人物が 「図」 と 「詩」 と 「散文」 という三つ全部を一緒にやったのは初めてのことだ。

 

 廓庵は極めて稀有な存在であると思う。 そして廓庵はこの上なく偉大な、他に類を見ない禅師であったに違いない。 廓庵の描いた牛の図は本当に見事だった!  また、廓庵の詩もこの上なく美しく見事であった! そして、廓庵の散文はというと、とても論理的で見事なものである。 

 

 ひとりの人間がすべての方面に意識の全ての次元に、これほどただならぬ才能があるというのはめったに起こることではない。 廓庵のユニークなアプローチからのメッセージというのは、さらなるアプローチだったのではないだろうか?

 

明日につづく

 

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