昨日のつづき
正義は、倫理道徳という善悪についての恒久的な観念により、恒久的な目標と恒久的な理解との関連においてのみ形成することができる。 もし自分が眠っていることを悟り、目覚めたいと望むなら、そのとき自己の覚醒を助けるものはすべて善であり、自己を妨害するもの、自己の眠りを長引かせるものはすべて悪であることになる。
それとまったく同様に、自身は他の人々にとっても何が善であり何が悪であるかを理解するようになる。 自らの覚醒を助けるものは善、それを妨害するものは悪なのである。
しかし、これは目覚めたいと思っている者、つまり自分が眠っているということを理解している者にとってのみあてはまる。 自分が眠っていることを理解していない者、覚醒への欲求をもつことのできない者は善悪を理解することはできない。
そして圧倒的多数の人々は自分が眠っているということを自覚していないし、これからも決してしないであろう。 それゆえ、自分には善悪は実際に存在しえないのである。
これは一般に受け入れられている考えとは相容れない。 人々は、善悪はすべての人にとって同一であるに違いなく、それ以上に善悪はあらゆる人に存在すると考えることに慣れているからである。
しかし現実には、善悪はほんの少数の人々、目標をもち、その目標を追求する者にとってのみ存在するのである。 真実は、この目標の追求を妨げるものが悪であり、助けるものが善なのである。
しかしもちろん眠っている人々は、自分は目標を持っており、どこかに向かって進んでいると言うだろう。 自分は何の目標ももっておらず、どこへも向っていないという事実の認識こそが、覚醒に近づいていることの、また覚醒が本当に可能になりつつあることの最初の徴候なのである。 覚醒はどこにも向かっておらず、またどこに向かえばよいのかわからないということを認識するときにこそ初めて始まるのである。
明日につづく