東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

楽な考え

一年は早い、気が付けばこのブログも私の順番は今年最後のブログになる。小学生の頃から読書感想文が死ぬほど嫌いだった私が、この様な文章を書いていると分かれば、草葉の陰で小学校時代の担任も喜んでいると思う・・・では最終日、本題に入ります

「人間は一茎(ひとくき)の葦(あし)である。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」かの哲学者パスカルは言いました。
私達人間が地球上に居る他の動物と違うのは、物事に対して理性を持って「考える」ことです。良いのか悪いのかを問われると、地球そのものから言わせると、いい迷惑・・・自然破壊含め無茶苦茶しやがってと思っているのかもしれません。またしても話しが逸れそうなので元に戻しますが、この人間独自とも言える「考える(思考する)」にも楽と快は存在するのです。

では実際、自分自身は「楽な思考派」かどうかをチェックしてみて下さい。楽な考えと言ってもピンと来ないかもしれませんが、ひょっとして日本人の大多数は知らず知らずのうちに「楽な思考派」にされているのかもしれません。
歴史的に見ても民族的に見ても日本人は楽な思考に陥りやすい特性を持っているのかもしれません。楽な思考とは早い話が“思考停止”と言えます。
物事を楽に考えるとは問題を正面から真剣に捉えない、嫌なこと面倒臭いことは出来るだけ先送りにする、まさに幕末期ペリーが来航し、開国を迫った時も同様に幕府は思考停止、翌年に答えを先延ばしにしても、尚、意見の纏まらぬ混乱のまま米国側と交渉することとなり、結果は済し崩し的に、家光の代から続いた鎖国の終演となりました。
そして、ペリー来航より158年後の今年、民主党幕府は第二の黒船とも騒がれている「TPP」問題に関してメリット・デメリット国民説明も有耶無耶なまま、党内調整も出来ぬまま、現状では突入していくこととなりました。一世紀かけても何も変わっていません・・・嗚呼、歴史は繰り返すぅ
これだけ書くと政府だけが悪い様な感じですが、何もこれは政府だけの問題では無く、賛成・反対を個々の業界団体が自らの利益本位でメディアやマスコミを煽る図式にも問題があり、一度、政官財も自らのことだけで無く、これからの日本の進むべき形をゼロにした状態で考えるべきなのです。もっと言えば私も含めてですが、聞き分けの良すぎる国民にも大きな問題があるのです。
未だに江戸時代の様に「お上(かみ)が決めたことだから、しょーがないよ」などと言って愚策に対して文句も言わず流されている体は、これこそ「思考停止」なのです。

去年から今年にかけてアラブ地域ではアラブの春と称し、大規模な反政府デモや抗議活動が行われています。現状の日本では想像も出来ないですが、日本でも歴史を遡れば、圧政に耐えかねた末の農民の百姓一揆や、島原の乱など、近年では60年代の安保闘争など便乗はあるにせよ、日本でも同様の思想(生活)闘争の時代があったのです。

では、今はどうでしょう?良くも悪くも議論が無いのです。大マスコミは何故かどの新聞も同じような内容でしか表現しません、テレビも右習えで、ニュースなのかバラエティなのか分からぬ、中途半端なことしかしません。
これこそ局によっても賛否があって然りだと思うのですが、どうも天の声が働く様で、消化不良のまま、国民も特に声を荒げること無く有耶無耶、気が付けば消費税や税金が上がり、我々の生活は困窮して行くのですねぇ・・・

しかし、ココまで聞き分けの良い「お気楽・らくらく」国民って世界的にみても多分、珍しいと思います。ある意味操作しやすい、お上にとっては都合の良いプリティな国民なのです。しかし、ペリーの時代と比べて圧倒的情報量を持つ現代人が何故、変わらないままなのでしょうか?
判断すべき材料はテレビや新聞、ネットなど、世の中には溢れています。
逆に現代人は情報が溢れすぎているということでしょうか?何だか矛盾していますが、一つのもの事を決める時に選択肢が多ければ多いほど、迷うものです。二つの中から選ぶのと十個の中から選ぶのでは、十個の方が迷いの種になるのです。今の日本人は情報の波の中で彷徨う小舟の如きもので、情報の善し悪しを判断することが出来なくなっているのです。

結局、最終的に情報の判断をするのは自分の「感覚(感性)」でしかないのです。何とも心許なく思えるかもしれませんが、デジタルに情報を収集し、アナログで判断するという手法が現在、日本に生きるために必要な手法なのかもしれません。やはり、大切なのは快・不快を見極める自身の「目(心眼)」なのです。怪しい話しには独得の臭い、胡散臭さがあります。怪しい人にも同様に感じるものがあります。これは理屈では無く、何となく感じるのです。
妙に饒舌だったり、不気味な明るさだったりと、決して暗くは無く寧ろ大衆受けする風貌だったり、どこから見てもいい人にしか見えないのです。
やっぱり、昔の人は嘘を言いません「上手い話には裏がある」「巧言令色、鮮なし仁」など、戒めの言葉は幾らでもあります。

最終日にこのテーマは操体と大きく外れている様に思われるかもしれませんが、「快適感覚」をききわけるとは、何も身体だけでは無く、人を見る目、物事を見る目も同様なのです。感覚のききわけは学習であり、今は分からなくても、身体に委ね、感覚に従うことで身に付いて行くのです。不快なものはハッキリ不快と認識出来るのです。感覚を磨くとは人生そのものを大切に歩むこと、道を違えること無く進む指針ともなるのです。
「楽な考えとは楽にあらず、快の道は楽ならず、しかし遠くに光明あり」
やはり、最後は“快”に従うことなんですねぇ・・・来週からはお待ちかね、三浦先生の担当になります。一週間ありがとうございました。