東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

滋養より。

おはようございます。

 「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」自然が奏でる美しいものを見、美しい音色を聞き、旬のものをいただく。初鰹も良いですが、大地の営養を吸い込んだ旬の地のものをいただくのも良いですね。

 キャベツにレタスに筍、アスパラガス。この時期のものは、みずみずしくて、歯ごたえもシャキシャキ、シャリシャリ、そしてすっきりとした甘み。キャベツなどは冬場に食べたものとは別物といった感じさえします。

 旬の地のものって良いですね。からだにもやさしい感じを受ける。口や舌だけでなく、お腹でも味わうという意識を持つと、お腹で有り難さを感じ、優しい気分になっていくのがわかる。

 滋養という言葉があるが、滋養の滋はしげることであり、草木が繁り育つ、うるおすという意味があるという。また、滋という字は糸が2つ並んでいるが、これは2つの糸束をあらわしており、染色する時に、それが水を吸ってゆったりと膨らんでいく状態をあらわす字であり、滋養につながり育むといった意味にもつながり、そのような心情を慈しむという意味になるという。

 滋のさんずいが心のつく慈しみに変わる。みずみずしさは、水っぽさとは違い生気の充実にこそ意味がある。水も質が重要であり、水分量を満たしていれば、それで良いというものではない。水には、あらゆるものを変化させる力がある。エントロピーの増大に向かう変化もあれば、その逆の変化もある。生気の宿る水なのか、ただの水なのか、それによって化学変化の仕方も変わってくると思う。

 水は言葉に反応するという。正確には言葉の波動に反応するのだろう。同じ言葉をはいても、ヒビキ方は人それぞれ違う。この言葉を使えばこうなる、という思考的ハウツーは通用しない。思考は嘘をつくのだ。しかし、感覚は嘘をつかない。感覚が嘘をつくとすれば、それは思考が誤魔化しているからであろう。嘘をついても見透かされてしまう。水は液体としてからだの隅々まで浸透し、空間にも気体として融合し、常に自分達の内と外に在るのだから。ありのままの良い感覚と良い感動を言葉の波動として、とおせばヒビク、そして現象も良い方向へ変わるのではないだろうか。

 みずみずしい精気に満ちた旬の地のものをいただき、口や舌だけでなくお腹でも味わう。何故お腹でも、ききわけと味わいをとおすかというと、口や舌は欲と結びついて騙されやすいからだ。舌の極楽、腹地獄という言葉もある。お腹でもききわけをとおし、味わってみる。そうすると結構、からだに良いかそうでないか、良いものでもどのくらいが良いかが解りやすくなる。生気のあるものを食べ、お腹で味わった感覚と感動を言葉にすれば、現象は変わってくると思う。「うぁ~ 身体の毒が抜けていくようだ」「おぉ~ 元気がわいてくる」感覚はそれぞれだと思うが、感覚を素直に口にすることで大なり小なり現象は変化しているのだと思う。

 しかし、その現象が継続して良い事がより大きくなるかというと、そうは上手くいかない。生命現象はバランス現象だからだ。腹に収めただけでは不十分で、それをより良くアウトプットしていかないと。その指標は自然法則の内にある。「息」「食」「動」「想」。全部大事なのは言うまでもないが、まずは食べ物から生気をいただいたのだから「いただきました」「ご馳走様でした」「ありがとうございました」といった想念を言葉に出し、意識を食物だけでなく、そのおおもとの天地に向ける、ということも大切だと思う。

 そうすることで現象だけの収めが、自在にもつうじるおさめとなる。他の生命のイノチをいただいて、生きているわけですから、天地におさめてあげたいですよね。自分達だって、いつかは肉体を地に還し、天に帰る時がくるのですから。