東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

操体庵ゆかいや物語(6)

こんにちは、佐伯惟弘第六日目のブログです。東京での修行中、一本の電話が、掛かってきました。それは、、、、、、


■出会いは「蔵」


「もしもし、、、河鹿荘の中井です。」
以前、京都・美山町(私の家があるところ)で働いていた宿泊施設の館長から電話。改装した大浴槽の横に、六畳の畳部屋があり、そこで、操体をしないか?というお誘いでした。


有難いお話ですが、お断りしました。操体を勉強していくうちに、私の計画が大幅に変わっていったのです。当初は、一年間で修得し、アメリカで開業するつもりでした。ところが、操体の奥の深さと私の能力を考え会わせたならば、三浦先生のおられる東京で開業するのが一番良い、と思うようになっていました。


それでも、報告がてら「美山での開業」の話を三浦先生にしてみました。すると、「やってみろ。」という意外な返事が戻ってきました。


話は、トントン進んでしまい。いつしか、美山に帰ってしまいました。


ただ、私の家はある家族に貸しているため、転がり込むことはできません。友人の梅棹マヤオさんの蔵(陶芸工房)二階にある物置が生活の場となりました。そこで、たまたま出会ったのがジョアン・ミロの画集でした。


私が、操体を学ぶようになったのは、「ジョアン・ミロの啓示」を受けたからなのですが、この話は長くなるので省略します。とにかく、気になる人の画集が眼の前に、、、、


画集を眺め、読んでいくうちに、文章を書いてみたくなったのです。こんなことは、滅多にありません。私は、もともと文章が苦手で、一日掛けて2〜3枚の手紙しか書けず、元妻からバカにされていました。
そんな折り、東京操体フォーラムから文章依頼がありました。もうこうなったら「渡りに舟」とばかりに、コンピューターの前に座りこんだのです。


その結果できたのが「ジョアン・ミロの記憶」。幸いなことに、この文章がきっかけで、スペイン・マジョルカ島ジョアン・ミロ美術館で二ヶ月のワークショップをすることになったのです。


今回は、第一回東京操体フォーラムの文集に掲載した「ジョアン・ミロの記憶」を手直ししたものを紹介いたします。ただし、かなり長い文章(約10ページ)です。お急ぎの方は、次の機会にどうぞ、、、


ジョアン・ミロの記憶」


私は20年間美術の仕事に携わりましたが、自立不可能であることをやっと悟り、操体の道を歩み始めました。2年半ほど前のことです。操体を始めて間もない私が操体を語っても数行で文章が終わってしまいます。


そこで、私の敬愛する美術家ジョアン・ミロを知識不足、経験不足、感覚不足にも拘わらず操体的観点から描きだそうという無謀な試みを企ててみようと思います。(橋本敬三先生、ジョアン・ミロ様、私の傲慢さをお許し下さい)


ここで、ジョアン・ミロをご存じない方に、簡単な紹介を致します。


1893年スペインのバルセロナに生まれ、ピカソ、ガウデイ(建築家)と共にスペインを代表する現代美術の巨匠。抽象美術、シュールレアリズムなどの潮流に身を置きながら、ユーモアと生命感溢れる作品をつくり続ける。彼独自の芸術活動を生命形態的形式と称される。1983年没


<はじめに ― ミロとの出会い>


私は、愛媛の片田舎にある神社生まれ。父親が中学校の美術教師であったことから、本棚には画集が数多くある環境で育ちました。小学校6年生になっても、神社の境内が最高の遊び場。日が暮れるまで、近所の友だちと過ごしました。
そこは、鎮守の杜を背にし、境内を小川が流れ様々な小動物が生活する楽園でした。沢ガニ、エビ、ヤゴ、ハンミョウ、石垣からはコケの群生。それらをなめるように見つめるたびに、何ともいえない高揚感が、からだに溢れてきたのを覚えています。


そんな私にとって、雨の日は少々憂鬱でした。仕方なく弟と相撲を取ったり、マンガを描いてみたり、、、、そんな時に、ミロとの出会いがありました。


「大人になっても、こんな子供みたいな絵を描いてええんか、、、楽しそうじゃのう、、、、、」
大人とは、祖父のように難しい祝詞や俳句を読み書きできる人。そう思いこんでいた私にとって、心をすっかり解放し、からだをゆるませてくれる出会いでした。ゆるみっぱなしのからだで、画集をボッーと眺めていたことを覚えています。


幸いにも、ミロが知識人で思想家であることを、少年の眼からは見抜くことが出来なかったようです。ところで、ゆるみっぱなしのからだに一体なにが起こっていたのでしょうか?ミロの画集をめくりながら、当時の私を追体験してゆきたいと思います。


<ミロと動きの操法


1910年代のミロの絵は、様々な芸術家や絵画運動の影響を受け変貌をとげましたが、全ての絵は風景画、静物画、人物画という具象画の範疇に収まっています。


3次元のものを具象的に2次元の画面に描く場合、自然の摂理を理解しなければ描けません。
具体的にいうと、草原に一本の立ち枯れの樹があるとします。その樹は、空洞化が進み所々に穴が空いています。ところが、根本から新芽が顔をだし、勢いよく伸びておりその生と死の対比に感動。これを2次元の画面に表現しようとします。


その時、描き手は自分の眼の位置を定め、太陽の位置を確認します。太陽と樹と眼の位置を把握した上で、樹とその周りの空間・位置関係を認識していきます。
また、樹があるところまで行き、手で触れその材質感や構造を認識することは、重要なことです。


そして、描き始めますが、太陽の位置は刻々と変化するため、見えた通りに描こうとすると収まりがつきません。そこで、太陽の位置を想定したイメージに従いながら空間を創造する力が必要になるのです。この時、自然の摂理を理解していなければ、空間が出来上がりません。


この時の自然と向き合う姿勢は、操体における、問診、視診、触診そして動診に当たります。自然や人体をあらゆる角度から観察し理解する重要な過程です。


そして、2次元に描く行為が、自然の摂理である連動を基本とする「動きの操法(第一分析、第二分析)」になります。1910年代のミロは、はっぱの葉脈までも克明に描くほど、自然の摂理を理解しようとしました。丁度その頃のミロは、「動きの操法」の真っ只中にいたわけです。


1923年以降のミロは、対象物にこだわらず、生命そのものと向かい合い、描くようになります。いわば、「皮膚に生命感覚を問いかける操法(第三分析=渦状波)」へと移行していったのです。


<ミロと渦状波 1>


「デッサン・コラージュ」(1933)という作品。これは、すすけた黄土色を基調に、女性ともカタツムリともつかない黒い線のドローイングです。
その上に風景画と静物画の絵葉書、幼い二人の女の子の写真、あとは機械の部品のようなものの写真が貼ってあります。


一瞬「何これ?こんなのあり?」既成概念の打破による不安と解放、そして、全く異質な物のぶつかり合いから生まれるめまいのような状態。


この感覚は、私が小学校6年のころ流行っていたテレビ番組・シャボン玉ホリデーで覚えがあります。植木等が番組の進行とは全く関係ない格好で登場した瞬間のユーモアと開放感、これに通じます。(番組では植木が場違いに気付かずしばらく演じ、気付くと絶妙の間合いで、「およびでない?これまた失礼いたしました!」という定番のコント)


これは、渦状波(皮膚に問いかける操体法)における意識飛びの現象に通じると思うのです。意識飛びの現象は、癒されたいというからだの要求が瞬間的な眠り、しびれ感、浮遊感等をつけてきます。


二つの物質(ドローイングと写真)の途轍もない距離を一瞬にしてうめようとする時に生ずる浮遊感。これは、アコヤガイが真珠生成する時、異質(核)を同化しようとする生命力そのもの。その違和感ゆえに生じる「生命力の美」を、ミロはコラージュで表現しようとしたのではないでしょうか?つまり、癒されたいというからだが瞬間的につけてくる快を「生命力の美」として視覚的に表現したのではないかと思うのです。


<ミロと渦状波 2>


「夜と朝の雨に歌うナイチンゲール」(1940)この作品は、灰色のザラザラとした画面に黒、赤、白、青の原色を使った記号のような形が踊るように散りばめられ、楽しくユーモアに溢れています。


第二次世界大戦勃発、ドイツ軍のフランス侵入にともないミロ一家は、戦火をまぬがれるためフランス、スペインを転々としました。ミロがそんな時、ランプの炎の下で夜空を思いめぐらせながら描いた「星座」シリーズのうちの一点です。


ミロはこの作品に関して次のように語っています。
「、、、ランプの油が、尽きようとしているのが眼に見えているのに、なお炎を聖化しようとするものがあるとすれば、それは何なのか、、、、これらの「響き」、、、最上、そして唯一の真の意味における、運命に対抗しうる力をもつように見えた、ひとつの神秘的な要求が生まれたのである。」


ミロは、最も自己を追いやられている時、ある「響き」に導かれ生命力溢れる作品を生みだしたのです。戦場を暗示する灰色を基調に、黒で生命を記号化し描き込み、赤、白、青の原色を彩色することで生命そのものを吹き込んだように感じられます。また。赤を中心としたこれらに原色は黒と必ず隣接して彩色されています。


このことに気付いた時、三浦先生著の「快からのメッセージ」裏表紙に描かれている絵を連想しました。その絵は黒の画用紙に、赤、白、緑のクレヨンで夜空に浮かび上がる魂(もし魂に色と形があるとすれば)のように円形に塗り込まれています。


ある患者さんが渦状波時の「色をみせられる現象」を再現したものです。この現象により歪体化したからだが、快適感覚(快感度が強ければ、より鮮明な色が見えます)を得、からだの正体化を促し疾病が改善されていきます。


ミロは、ランプの炎が消え入りそうな暗闇で、鮮やかな原色をイメージし、運命(戦争)に対抗しうる力を感じ、追い込まれていた自己を癒したのだと思います。実のところ、ランプを前に神秘的な要求として見いだした「響き」は、渦状波における「色をみせられる現象」だったのではないでしょうか。


<ミロと渦状波 3>


「花火3部作 2」(1974)この作品は、オートマチスムという偶発的、無意識的に線や色を描き潜在意識の世界を探る手法。立てかけた画布に、灰色と黒の薄めたペンキを柄杓(ひしゃく)でまき散らし、赤と黄の彩色を二カ所もうしわけ程度にしている作品。ただ偶発的にできた形を楽しんでいるだけに思えます。


「絵画1/5」(1960)これは、霞がかったくもり空のような画布に、黒いシミと色鉛筆によるなぐり描きをしただけの作品。この2点は、ミロの強烈な個性を感じさせる多くの作品とは対照的。ミロの絵画を良く知っている人でも、この2点を見ただけでミロの作品であることを言い当てるのが難しいほど、没個性的です。しかし、肩肘を張っていない分、広がりと生命力が感じられます。


これらの偶発的、無意識的に描かれた作品は、渦状波の「からだが無意識に動く現象」に相当するように思います。この現象は、からだが治癒に向けてつけてくる無意識の動きで、気持ちのよさを満たすことにより、生体のバランス制御、心の調和を促します。


ミロの個性豊かな作品が整然と並んでいるアトリエを想像してみて下さい。几帳面なミロは「たまには、息抜きをした絵を描きたい」と、思ったかもしれません。そんな時、無意識のうちにこのような作品を生みだしていった、と考えても決して不思議ではありません。


<ミロの芸術は生命形態的形式>


1921〜22年に描かれた初期の代表作「農場」について述べてみたいと思います。これは、モントロイグというミロの父親の別荘があるところの農場を描いたものです。


青い空と赤茶けた大地が画面の上下を二つに割り、左にはロバのいる納屋、右にはウサギやニワトリのいる小屋、中央には大きなユーカリの樹。壁のヒビ、トカゲ等の小動物、バケツやジョウロなどの日用品なども全て対等に精緻に描かれています。


この作品はしばらくの間、ある画商の手元にありましたが、全く売れないため画商が小さく分割してばら売りにする事をすすめました。それを聞いたアーネスト・ヘミングウェイが、なけなしの金をはたいて買ったという逸話のある作品です。ミロは次のように言っています。


「ひとつの風景を前にして仕事をするとき、私はまず、その風景に愛情を抱くことから始めます。そうしていると、ゆるやかな理解が芽生えるのです。それは太陽の恵みをうけた大きな色調の豊かさー濃厚な豊かさーへのゆるやかな理解です。風景のなかで、ひとつの葉脈への理解を願うこと、なぜ木や山と同じように美しい葉脈をさげすむことがありましょうか。原始人や日本人を例外として、何人もこれらの素晴らしい事物に興味を示さないのです。人は大きな樹海とか、山塊を探し求めて描いても、小さな花、葉脈、激流の小石がかもし出す妙なる響きを聞きもらしています。」


これらの言葉に秘められたミロの思いを、私なりに描いてみようと思います。このなかで、ミロは原始人と日本人以外は、小さな花、葉脈、激流の小石がかもし出す妙なる響きを聞きもらしていると述べています。


それでは、原始人と百年ほど前の日本人(残念ながら現代日本人とは、言えません)とが聞いていた妙なる響きとは一体何なのでしょう?


それは、原始人におけるアニミズム八百万の神を信じる神道における自然崇拝や感謝の念を通して感じることのできる「波動」ではないでしょうか。


ミロは日本人の感性で風景を構成している全てのものに思いを馳せ、愛情を抱き、太陽の恵みに感謝したのだと思います。事実、ミロは「モントロイグというところは、私にとって宗教のようなものです。」とまで言い切っています。


そして、1920年以降、冬はパリで夏はモントロイグで過ごすようになります。パリでは最先端の流行を感じとり、モントロイグの自然のなかでは、自己を含むあらゆる生命と向き合う生活を送ったのです。このことは、ミロを理解する上で非常に大切なことだと思います。つまり、モントロイグという宗教のおかげで、大きな美術潮流の真っ只中に身を置いても、ミロの芸術は、揺るぎない変貌をとげることが出来たのです。


モントロイグの自然から受ける波動を自己のからだ(ミロは、手であると言っています)を介して形にしていったのです。そして、「私は自分が植物であるかのように感じます」とまで言っています。


植物は人類発生以前から存在し、人類滅亡後も存在してゆく生命の源ともいえます。つまり、太陽エネルギー、二酸化炭素、水を元に葉緑素で糖と酸素を生成する植物は、地球上唯一の生産者であり、物をとめどなく生産していると勘違いしている人類はじめ、その他の生物は、じつは消費者であるという事実を、ミロは感じとっていたのです。


それゆえ、少々傲慢に聞こえる「自己の植物化」を敢えて宣言し、ミロの芸術は「生命形態的形式」であるという評価を得ることになったのです。


<二人の巨人の共通点>


ここで、話を操体に戻します。橋本敬三先生の思想はあまりにも深遠で私の頭では消化しきれません。そこで先生の著書「生体の歪みを正す(創元社)」の306,307ページより引用いたします。


「波動は(+)(-)という二つの異質なものが存在する事によって、その引き合いや跳ね返しにより、そこに動きの波ができる、これがエネルギーとなるわけです。科学の最高の指導原理と言われる唯物弁証法は、(+)(-)の存在までは認めるが、(+)(-)は誰が決めたかということは言いません。


ところが日本の古事記には、原初に成りませる神の御名は(アメノミナカヌシノカミ)とあります。次に成りませる神の御名は(タカムスビノカミ)(カミムスビノカミ)。
この三柱の神は、御身をかくし給いき。在るというのはわかるのだが、お姿は見えないというのです。あとのお二方の神は別名(アメノヤノボリノカミ)(アメノヤクダリノカミ)とも言い、(+)(-)の神様というわけです。


世界中の神話で、こんなすばらしい神話は比類がありません。、、、、、、、、、、
(アメノミナカヌシノカミ)とは宇宙現象創生の中心理念であって、(+)(-)を設定して、そのムスビーすなわち愛とその法則によって万象を具現したものだと、われわれの祖先はさとったのだと思います。、、、、、、、、、、陰陽波動から生命ある生物まで、どの世界にも神の理念が貫通しておりますから、私どものなかにはもちろん神(自然理念)が生きて働いておるわけであります。理念などというものは脳随細胞の産物だ、物質がすべてのもとだ、と頑張る唯物論者は、一ケタ足りないものだと思うのです。」


学生時代キリスト教によって救われた橋本先生も、どの世界にも神の理念が貫通していることを悟った日本の神道のほうが一ケタ上だとおっしゃっています。丁度これは、ミロが「原始人と日本人だけが小さな花、葉脈。激流の小石がかもし出す妙なる響きをきいている」という件(くだり)にあたるところです。


つまりミロは、からだの中に宿っている神(自然理念)をモントロイグの自然から感じとり、愛をもって、自ら同化しようとしたのです。
スペインのモントロイグと日本の仙台を同時代に生きた二人の巨人。全く交流もなく美術と医学という畑ちがいの世界に身を置きながら、同じ方向を見つめそれぞれの世界で警鐘を鳴らし、今なお人々に影響を与え続けています。


実のところ二人の巨人の影響を間接的ではありますが、まともに食らっているのが私です。この文章を手がけるまでは、ミロが神道的な思想の持ち主だとは知りませんでした。また、橋本先生とミロ(操体とミロの芸術)にこれほど共通点があるとは思ってもいませんでした。
これも小学校六年、ミロ画集との出会いからはじまり、3年前、ニューヨークの画廊で出会ったミロの作品からの啓示で運命を標されたのです。あの瞬間から、私は操体の世界へ身を投じることに決めました。


しかし、これも誰かに導かれた必然性を感じます。そして、慣れない文章と格闘する時間を通してミロ、神道、橋本先生との結びつきを学ぶことができました。これも、実行委員の方々の導き(文章依頼がなければ、決して気付きませんでした)のなかから生まれてきたものです。本当に感謝いたします。


(そして、今回はブログ一週間担当ということで、この文章の手直しをしていますが、この「5年ぶりの再会」にも新たな導きを感じています)


<最高のバランスが快の極地>


ここでもう一度、少年の頃の私がミロの画集を見て、からだがゆるみ心が解放されるような体験をしたことに戻りたいと思います。


これまでは、ミロ個々の作品について解釈をしてきましたが、総合的にミロの絵画を語ると、抽象と具象、必然と偶然、意識と無意識を同一画面に混在させバランス制御を原始感覚にしたがって行い、その結果が作品となると考えられます。


その制作過程で、ミロは原始感覚を研ぎすまし、色と線が発する微妙な波動を感じながらミロ自身が波動を出していきます。植物が太陽に向かって生命を謳歌するように神(自然理念)の導きにゆだねいったのです。その最高のバランスが快の極地でありミロの求めるところだったと思うのです。


また、快という感覚だからこそ少年にも伝わり、50才を間もなく迎えようとしている私(もう53才になりました)のからだにもその記憶が残っていたのでしょう。
最後にポルセールという皮肉屋のインタビューを受けたミロの言葉を紹介して終わることにします。


ポルセール:そうすると、絵を描く際、圧倒的な重要性をもってくるのは、
      一つの目的。必然性、、、、、
   ミロ:均衡というね。
ポルセール:では、形式対中身、すべて。
   ミロ:然り、均衡です。


(つづく)

佐伯 惟弘