東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

◎21世紀の息・食・動・想・環を考える(インタビュー)

「月刊手技療法」には、「シリーズ操体」が8年に渡って連載されています(08年現在、三浦、今、畠山が担当)。
この記事は1999年4月の「月刊手技療法」に掲載されたものであり、同年秋に同出版社より発行された「快からのメッセージ 哲学する操体」への伏線となっています。
(一部畠山編集)

1999年4月号月刊手技療法
《巻頭インタビュー》 ◎21世紀の息・食・動・想・環を考える
三浦寛先生に開く  「快適感覚」の聞き分けこそが操体法

橋本敬三先生の遺した操体法の本質とは何だったのか
今回は本記事のテーマ「息・食・動・想・環」の提唱者である橋本敬三先生(1897-1993)と、その創始による操体法について、操体法の第一人者である三浦寛先生にお話をお伺いしました。
快適な方向へ体を動かして間を置いて脱力する、という操体法は、その安全性と、一人でも実践可能であることから、治療家のみならず一般家庭での健康法としても広く普及してきました。しかし、操体法の本質については誤解されている面も多々あるようです。このインタビューでは三浦先生にそのあたりを中心にお話していただけました。


恩師・橋本敬三先生との出会い


本誌:先生が操体の道に進まれたきっかけについてお聞かせください。
三浦:高校を卒業して仙台の赤門鍼灸柔整専門学校の柔整科に入学したのですが、そこに操体の創始者である橋本敬三先生が講師としていらっしゃっていたんです。
柔整科には橋本先生の講義はなかったのですが、先生が講義をされている様子をお見掛けすることがあって、「変わったことをお話する先生だな」と思いながらも、何か興味を惹かれるものがあり、それで、「先生の科目は柔整にはないのですが先生の講義を聞いていてもいいですか」とお願いしたら、「おお、一番前で聞け」ということで、先生の講義を受けていたわけです。
そのうちに「ワシは温古堂という診療所を開いている医者なんだが、お前ちょっと来てみないか」と声をかけていただいて、「お前、ここでワシのやっていることを勉強せい」と言われて。
僕としては、本当にありがたかったのは、自分が何のためにこの裟婆 (しゃば)に存在して何を為そうとしているのかが、その頃まだ分からなかったのですが、橋本敬三というヒトに触れて、俺のやろうとしていたことはこういうことだったんだ、このためにこの裟婆にうまれてきたんだ」という気持ちになったんですね。そもそも橋本先生が操体をやっているということも最初は知らなかったわけですが、とにかく人間的に惹かれたわけです。


本誌:弟子入り当初、橋本先生はおいくつでしたか。


三浦:ちょうど橋本先生70歳で、僕が18歳。


本誌:本当に孫と祖父という感じですね 。


三浦:先生にしてみればそういう感じだったんでしょうね。ただ、偉い先生なんだけども威張ったところもないし、「自分も年をとったらこういった枯れ方をしたいな」という生き方を持っていらっしゃる先生でした。自分がどう生きていったらいのかということを先生から学ばせていただいたような気がします。


操体の魅力とは


本誌:操体の魅力とは何ですか。


三浦:操体には、疾患に対してこういう風に診断しなさい、こういう風に治療しなさいということがないのです 。橋本先生の捉えかたは、どんな疾患でも必ずボディに歪みがある、この歪みが疾患現象を引き起こしている元の原因、元の原因を正しさえすればそれでいいんだ、という発想なんです。
ここにもいろんな病名を付けられたカがいらっしゃいますけれど、僕は病気の治し方は知らないんですよ。知らないけれどもこうやって患者様とご縁をいただいてこういうことをやらせていただいて成り立っているわけです 。そこがやはり操体の面白いところというか、別に疾患を治すという捉えかたをしなくても対処できるということですよね。


本誌:操体はあまり効果がないという方もいらっしゃるのですが、それは何かやり方がまずいのでしょうか。


三浦:我々が操体の中で、そして生きることの中で絶対視しているのが「きもちが良いという快適感覚にしたがう」というルールです 。それは操体のルールではなく、命あるものは必ず快に向く、という法則があるのです。実際に臨床の場でどういう具合に快適感覚を活かすのかという快の方向性を橋本先生が示しているわけですが、みんなは橋本先生のやり方しか見てないし、創始者がやっているやり方だからそれをまねていればいいだろうと思っているわけです。しかし、奥が深いんですよ。快適感覚を聞き分ける手段はまだ沢山あるわけで、その探求がまだ不十分ではないかと思います。
私自身も橋本先生のされていたことを肯定はしてはいるのですが、100%鵜呑みにして理解しようとしているのではないのです。創始者のやっていることだからこれは間違いないことだろうとなると、それ以上深めることができず、ただ真似しているだけということになってくる。そうなると操体そのものをよりよく活かしていけないわけです。


本誌:具体的にはどういうことでしょうか 。


三浦:操体を体系付ける前に橋本先生は正体術(*)というものを見ていました。正体術に橋本先生が興味を示したのは「痛くない方に動かして治すことが可能であれば、こんな素晴らしいものはない」という考え方があったわけですね。
ただ、操体の診断や治療の中で、楽な方に、痛くない方にという風に臨床を進めていくとやはり間に合わない点が出てくるわけです。楽な動き、または痛くない動きに「きもちが良い」という快適感覚が実際にある場合とない場合があるんですね。きもち良いという快適感覚がある場合には操法が非常に有効なんです 。そういったことが分かってきたんですね。逆に楽な方、痛くない方に動かしても「きもち良い」という快適感寛がない場合はそれほど効果がないんです。


快適感覚の探求


本誌:関節可動域の差や動作痛の有無で操作方向を判断している方も多いと思いますが。


三浦:操体法を本格的にやっている先生でもそうなんです 。楽な方、痛くない方へという操法の問いかけ…は、操法の選択として最少最低限の受容感覚なんですよ。
たしかに基本的には間違ってないですが、「きもち良い」という快適感覚でバランスが取れ歪体が正体に戻るいうことを橋本先生もおっしゃっているわけです。
これは言葉でごまかされている部分があるんです。楽な動き、痛くない動きは「きもち良い」ものだという先入観がある。しかしそうではないんですよ。ただ単に楽というだけで快適感覚がないケースが結構あるんですね。
そのきもちが良いという快適感覚があるかないかという感覚分析ができてないから内容が乏しい。「なんだ効かないじゃないか」ということになってしまうわけです。そこの気づきを持っている先生が少ない。


本誌:きもちがいいということが重要ということであれば、可動性が少ない側であってもその動きに快適感覚があれば、その方向に動かすこともあるわけですね。


三浦:そうなんです。きもちよさで治るんですから。だから、動きが目的ではなく、快適感覚を聞き分けさせるために動きを手段にしているわけです。多くの人たちは動きがメインで感覚をおざなりにしているところがあると思います。
橋本先生も晩年は「操体というのはどうでもいいんだ、とにかくきもち良さを楽しめ。それしかないんだ」ということを言われていました。


本誌:実際の臨床ではその快適感覚が全然わからない方もいらっしゃると思いますが。


三浦:そういう場合、ひとつのプロセスとしてきもち良さがわからなくても比較対照的に動きを分析すれば、楽か辛いか、痛いか痛くないかぐらいは分かるんです。だから一つの方法として、それだったら辛い方から楽な方に、痛い方から痛くない方にやりながら、そういった感覚の聞き分けを、体を通して学習していく訳です。一方、「きもち良い」という感覚が分かる患者さんには一つ一つの動きにきもちの良さがあるのかどうかを聞き分けさせていくのです。つまり、「一つ一つのどの動きにきもち良さがあるのか」を聞き分けさせていくという、新たな操法の問いかけもできるのです。さらに、きもち良さの質的要求として、快適感覚があっても、からだがそのきもち良さを要求してくる場合と、そうでない場合が出てくるんです。つまり、きもちの良さにもなんとなくきもちが良いケースもあれば、無上にきもちが良いケースも出てくる訳ですね。そこで、からだが要求し、選択してくるきもちの良さを聞き分けるという試みも生れてくるのです。つまり、からだの要求感覚ですね。
そうなるとただ「きもち良い」ではだめなんです。なぜなら快の質というものをからだは求めており、からだが要求してくるきもち良さを通すのが一番理にかなった操法の選択となるんです。


本誌:体が求めている快適感覚の聞き分け自体が診断であり治療なんですね。


三浦:ただ、寝たきりの人とか動きを通せない患者さんもいらっしゃるわけで、そういった方にどうやって快適感覚を聞き分けてもらうか 。あと、もう一つは、動きはとれるけれど感覚の分からない患者さんにどう対処していくのか 。これは操体をやっていて長年の課題だったんです.そして、操体というのは運動系(骨格・関節)を動かして診断しているわけですが、それが不可能な患者には、運動系の一番外枠である皮膚に、快適感覚の問いかけをもたせていけばいいのではと考えたわけです。快適感覚の分からない人でも皮膚を動かしているとそれが分かってしまうんです。以前やっていたものはこれだけいいけれど、今こういった観点から捉えていった方がより活かせるといった発展的な考え方から僕は操体というものを捉えているわけです。


自分を愛せない現代人


本誌:先生から見た現代人の問題とは何でしょうか。


三浦:ひとりひとりの心が塞いでいるという印象ですが、これは何かというと自分の命を軽く見ているということなんです。そうすると人の命も軽くみてしまい、人を傷つけたりといったことも起きてくる 。自分を愛せない自分が存在しているわけで、相手も愛せないからすぐ傷付いてしまう。


本誌:自分を愛せない人は生きていても快適な感覚がないでしょうね 。


三浦:それは、快適感覚を自分の外に求めているから。そうではなくて自分の内側にあるという捉え方ができないんですね。そういった中で味わえる快というのは薄いでしょうね。


本誌:一般的に快といえば、お酒やセックスなどの連想があるかと思いますが。


三浦:要するに依存症を伴うような刺激ですね。でも、本質的に人間が求めている快適感覚ではないですよ。刺激性を伴わない、ヒトがヒトらしく生きていくために本質的に心とからだが求めている快というものがあるわけです 。そういったものに気づいていかないといけない。
心とからだが本当に求めてくる快適感覚が分かると、心とからだは素直になるんです。やはり自分自身を愛せないと、また自分がきもち良くないと人を愛せないし、人に親切にしようというきもちも起らない 。きもちよさに対しては委ねていたいと思うから、患者さん自身心もからだも素直になれるんです。
それは快(きもちの良さ)の学習なんです。学習を通し味わっているうちにだんだん心とからだが要求している本質的なきもち良さに触れることができるんです。そうすると本当に素直になる。その本質的なきもち良さが無上のきもち良さというのかな。それに触れることによって自分の人生観、世界観が変わってくるんです 。たしかに患者自身は膝が痛いとか、胃にポリープができたとか、肉体に疾患を抱えて「なんとかしてくれ」と来るんだけど、一番我々が望んでいるのは、快適感覚を味わうことによって生き方が変わるということ。人生観が変わるということなんです。


本誌:操体の世界というのは、入口は入りやすいですが、中に入ると果てしなく深く広いという感じですね。


三浦:橋本先生は我々のような内弟子には「お前ら、よくこんな難しいものに首をつっこんでやってくれているな。難しいけれど、これは一生やってても面白いぞ」と、そういったことをポツポツと言うわけです。決して「簡単」なんて言いませんよ。難しいのだけれど一生楽しめる、と。操体の本質は「感覚」なんです。だから難しいですよ。難しいけれども、きもち良いという快適感覚に従うということが、生きていく上での無上、この上ない生かされし道(タオ)とすれば、それを探求していく面白さというのは尽きません。だから、僕は他のこと(治療)はしないで、快適感覚にしたがうという、大生命の理に委ねてみせていただいているだけなんです。


本誌:息・食・動・想・環にわたってその原理は生きているんですね。本日はお忙しい中、本誌のために時間を割き、体の治療に止まらない操体の奥深い世界を語っていただきありがとうございました 。


(*)ここでいう正体術とは高橋迪雄(みちお)先生によるものを指す 。関連書籍『正体術健康法』はたにぐち書店より発刊されている 。