東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私の祖父・佐伯惟揚(さいきこれあき)は1898年・明治31年生まれ。操体創始者の橋本敬三先生と同世代です。


祖父は8才の時から俳句を作り続け、86才で生涯を終えました。若くして小学校や中学校の校長を歴任し、1953年(昭和28年)に退職。その後は俳人としての人生を歩みました。


私が生まれたのが、1954年(昭和29年)ですから、物心が付いた頃から、俳人・巨星塔の生き様を目の当たりにしていた事になります。


祖父の生活はいたってシンプル。
起床後、白装束に着替え、神社で太鼓を打ち、地域の人々の幸を思い祝詞を上げます。



(宮司・佐伯惟揚、お祭りの時の装束)


それからは、夕方に祝詞を上げるまで、俳句三昧。
前日紹介した松根東洋城先生主催「渋柿」の同人になっていた巨星塔は、7句会で俳句指導に当たっていました。


仮に弟子1人が10句詠み、1句会20人で200句。200句×7=1400句


単純計算で毎月1400句近くの俳句添削を行っていたようです(実際には、総勢180名の弟子)。
これらの作業以外に自らの俳句を詠んでいたのですから、俳句三昧に成らざるを得ませんでした。


「ひろむ、おいで。」


と書斎に呼ばれ、孫の私は、分厚い手紙の束を近所の郵便ポストまで運ぶのが仕事でした。
今思うと、あの手紙の束がお弟子さん達への、添削用紙だったようです。


読書嫌いの私にとって、祖父の文字は難解で読みづらくは、ありましたが、大好きでした。
凛と正座をした祖父の手から、流れ刻まれていく書体の妙。そこには、祖父の生き様が表れていました。


しかし、それと裏腹にあまりにも高尚で近寄りがたい波動が、これからの長い人生の深遠さを幼い心に植え付けていきました。


「ぼくは、じいちゃんみたいに、ゼッタイなれん。俳句みたいな、むつかしいことはやめとこ!」


読書コンプレックスの私が思い込むのは、当然のことで、祖父の様になりたいという憧れを持つ、勇気は持ち合わせていませんでした。


きっと、この経験を通して、書に対しては心地よい正の反応。
俳句のような言葉による表現・文学作品には逆に、負の反応を示すようになっていったのだと思います。


俳人・巨星塔の元には、様々な人々が訪ねて来ます。
ある日のこと、ボロボロの作業着の上に、真綿を入れたツギハギだらけのちゃんちゃんこ(地元では、デンチといっていました)を羽織った老人がやって来ました。


「巨星塔先生は、おられますかいのう(いらっしゃいますか)」


お酒が入って赤ら顔の老人は、いきなり玄関に座り込み長居を決め、手には、自作の句を書いた短冊を数枚持っています。


あわてて祖父を呼びにいくと、


「おう、、バイコウさん、、、ようこられましたのう」


と、おっとりとした態度の祖父は、嬉しそうに微笑んでいます。


俳句を学ぶ人は、それぞれの俳号を持っています。
俳句三昧の生活を送っている祖父は、近所づきあいをしている知人でも、常に俳号で呼び、日常の会話で飛び交う人の名の多くは俳号でした。


まさに、句会の延長が日常だったといえます。
バイコウさんも、そんな中の一人でした。


長々と俳句の話しをしているのは分かりましたが、
どんなことを話しているか、私には見当がつきません。


ただ、祖父の


「あの人は、あんな格好をして、お酒を飲んでくるけど、ええ句作るんぞ。」


という言葉がいつまでも心の中に残っています。
祖父は、自由人であるバイコウさんの生き方を認め、私には、


「人を見てくれで判断しては、いけんぞ。」


というメッセージを投げかけてくれました。
また、俳句のもつ自由さ、深遠さをバイコウさんの容姿、態度から感じとることはできました。


しかし、俳句に関心を持つことがなかった私にとって、俳句を通して祖父を語ることは、この程度しか出来ません。
私にとって俳人・巨星塔は、あまりにも遠い存在なのです。


そこで、祖父が80才の時に自費出版した「黛石」という本の中から、祖父の生き方を紹介したいと思います。



(黛を濃いうせよ草はかんばしき という東洋城の代表句から命名)


まず、これほどまで長年の間、俳句を続けていたのに、何故たった一冊の本しか出版していないのか、、、しかも、弟子の勧めでやっと、、、という素朴な思いが生まれます。


それは、この本を読んで行くうちにぼんやりと分かるようになってきました。一言でいえば、「俳句とは行(修行)」だからなのだと思います。


一節を抜粋します。


私が近頃、貴方達に向かって、頻りに「一句は一悟なり」を提唱するのは、次の如き私の体験に基づいてのことである。



私は少年時代からよく不眠に苦しんだりする生来の
神経質で範窓(師範学校)を二年休学し、教職中でも一年休職の止むなきに到った。


私は悲愴な覚悟を以て単独上京し、森田正馬医博の門を叩き、その診療に身を委ねた。


全く背水の陣を敷いての斗病である。
小石川の森田邸に住み込み、満五十日、一服の薬も、一本の注射も受けず、朝から晩まで息もつがせぬ作業療法で、十有余年にわたる宿痾を雲散霧消させることが出来た。


“石ころは石ころである麗かな”


の一句はその時の悦びを詠った諦観の境涯句なのである。
博士への礼状へ此の句を書き添えたところ、
博士より、禅語にも比すべき佳吟として褒められた。私は、学界の権威者から褒められたので一人嬉しく思うた。


とありますが、祖父はその行と句を対比して、次のように述べています。


虎穴に入って虎児を獲たにも等しい苦行と、それによって得た、石ころの句といづれが尊いかと自問して、如何に当代の碩学から褒められたとはいえ、石ころの句の方が尊いとは自答し得なかったのでる。


とあります。俳句そのものより、それに取り組む姿勢、生き方が尊く、それが悟りへの道であると言っています。


先日の塾操体操体臨床家の勉強会)で、三浦先生が重そうなもの入れた風呂敷包みを持って来られました。


その中には、この一年間の日記。


しかし、これはただの日記ではありません。
操体全般における、新たな気づきを図解入りで記載した宝の山でした。一冊が1.5センチから2センチ位に膨れあがった厚さの日記が12冊以上。


この宝の山そのものも、凄いのですが、それ以上に早朝から施術の合間を縫って、コツコツとかき続けられたその“行”にこそ、我々が平伏してしまう求心力があるのです。


そして、三浦先生は、
「これは、君たちのものだ。どうぞ、勉強して下さい。」
とまでおっしゃり頭を下げられたのです。放下そのものです。


何という見事な生き方でしょう!
三浦先生の操体に取り組む姿勢こそ、私のお手本であると改めて確信できました。
そして、俳人・巨星塔の歩んできた道を、操体という道を通して追体験できると思えるようになりました。


こんな師の周りには、同じ様な波動を感じる若く才能のある人々が、渦巻きに吸い込まれる様に集まってきています。


地球の反対側からもそんな動きが始まっているようです。
先日、全く見ず知らずのフランス人から、操体を習いたいが何かいい方法はないか?とメールがありました。


三浦先生のことを簡単に紹介し、本人のやる気を伺うメールを送りました。
帰ってきたメールによると、本人は指圧を勉強し、操体は本でしか知らないけれども、興味があるということでした。今後とも連絡を取り合ってみようと思います。


祖父が生きた頃には、その行から発する波動の広がりは、愛媛の中予(松山文化圏)止まりでしたが、想像を超えた情報網の発達によって、今や三浦先生の成されている行は、瞬く間に地球を一周しようとしています。


しかし、情報として伝わる操体には限界があり、正確に伝わらないという危険因子を含んでいます。


このような状況の中、三浦先生の弟子として、また俳人・巨星塔の孫として、私のすべきことがぼんやりと見えてきたような気がします。
祖父が俳句三昧の生活を始めたのが、55才。私は来年55才になります。どうやら、私も“行”を意識する時期になってきたようです。


明日は、祖父の師・松根東洋城の球心機動について話したいと思います。



佐伯惟弘



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