東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

『操体』と『手放す』ということ。

神田昌典氏の最新作『全脳思考』を読んだ。神田氏の著書は数多いが、何故か私は読んだことがなかった。それも不思議と言えば不思議なのだが、何かの巡り合わせなのかもしれない。これは7年ぶりのビジネス書とのこと。

全脳思考

全脳思考

私には以前からずっと考えていることがある。

操体臨床家の若手の育成
操体臨床家の地位の確立
・海外への広報活動

後継者の育成はどの業界でも深刻だと思う。
臨床家の地位確立は私の悲願の一つでもある。操体法の創始者、橋本敬三先生は医師として、臨床として操体をやっておられた。途中から『健康体操としての操体』にばかりスポットがあたり、操体法というのは地方の『○○操体法の会』などで健康体操サークル的に行われているケースが多い(健康体操サークルなので、臨床の操体とはレベルが格段に違うのはまぎれもない事実である)。
愛好家が多いことが悪いとは言わないが、これによって、操体の臨床家のポジションはあまり高いとは言えない状態である。             私はこれをどうにかしたい。

『愛好家』の中には「操体でお金をとってはいけない」という人もいる。こういう方は元々橋本先生が医師であり、臨床として操体をされていたことを忘れているのだ。また、愛好家の方全てがそうだとは言わないが、操体の専門家の話を聞かない。少なからず愛好家よりは操体を深く学んでいるのだからもう少し耳を傾けてもいいのでは、と思うことがしばしばあり、専門家が何かの時に『これこれこうで、橋本先生はそのようには言われていませんよ』とアドバイスをしても『そんなに細かい事を言わなくても、みんな仲良くやればいいじゃないですか』とか『私は操体の専門家じゃないから』と逃げる方もおられるのは事実で、残念に思う。

以前、仙台の大会の基調講演で『操体でお金をもらってはいけません』と言った大学の教授がおられたが(早稲田の石井先生ではないです。念のため)その時会場にいた臨床家が『ふざけるな』『大学のセンセイは大学から給料もらってるんだろうが、私達は臨床で生業を立てているんだぞ』という声が上がったことを覚えている。当たり前だ。臨床家をナメている。
これは、橋本先生に向かって『患者から治療費をもらってはいけません』と言うのと同じだ。

健康体操として操体を認識している方々にとって、治療費(あるいは施術料)をとって操体を行うというのは、まるでラジオ体操のやり方を教わって施術料を払うのと同じくらいの驚きかもしれないし、実際、実行委員の中にも『操体で臨床ができるんですか?』と聞かれたメンバーがいる(それも、自称『民間療法には詳しい』という方かただったらしい)。

手厳しいことを書いているかも知れないが、誤解して欲しくないのは、愛好家が悪いと言っているわけではない。操体のプロフェッショナルがいるということを認識していただきたいのと、「健康体操としての操体」は操体の中のほんの一部であるということを認識していただきたいのである。

海外への広報活動だが、海外では未だに『第一分析』時代のものが操体法として通っている(日本でも同じようなものだが)。翻訳されているのは『万病を治せる妙療法』と『操体法写真解説集』の二冊だが、『快適感覚をききわけ、味わう』という第二分析以降の書籍は英訳されていない。これもどうにかしたいと思っている。
これらの課題は漠然と思っているだけではダメで、実際にアクションを起こさなければならないしそれには戦略が必要だ。


まずこの本のデザインが気に入って手にとった。それから「目次読書」をして、気になるキーワードを見つけたので言葉が書かれていたからこの本を買ったのだが、その中の『U理論』に興味を持った。
U理論というのはどうやら、『思考を体系化』したもので、『社会変革プロセスにおける思考のあり方を体系化』したものだ。もっと簡単に言えば、現実認識を掘り下げるほどに、その思考から導かれる行動は深くなるということ(内面の思考を深めるほどに、実際にとる行動は力強く、思考は実現しやすくなる)、ということらしい。

・U理論はMITスローン校経営学部上級講師のC.オットー・シャーマー氏が体系化したもの

例えば、操体臨床歴41年で、起きている時間のうち、ほぼ8割(いや9割以上?)は操体のことを考えて続けている三浦理事長と、操体をほんの少しかじって(ビデオやDVDを見て)本を見ながら自分のクライアントにおそるおそる試しているA君とでは深みが違うのは当たり前だ。A君のように表層的な理解のみならば行動に移した場合でもおざなりになりがちになるので、結果にもあまりこだわならない。しかし、操体を深く考察し、目の前の患者様とその現実を深く掘り返し、思考していったらどうなるかというと、その現実における意味(事象)を深く理解すればするほど、解決策については単なるアイディアレベルではなく、本質的な変革をもたらすものになる。つまり、結果がでるということだ。

★勿論A君も深めることが可能なのは当然である

操体を本を読んでちょっとかじったA君のところに、急性のぎっくり腰で動けない急患さんが来たとしよう。A君はまず、患者さんにベッドに仰向けになるように指示する。まずは仰向けにして、足関節を曲げさせるか、膝を左右に倒す分析をしようと思ったからだ。しかし患者さんは腰が痛いので、ベッドに横向き、エビのようにからだを丸める姿勢しかとれない。A君はお手上げで『操体は仰向けかうつ伏せじゃないとできない』と、諦めてしまうのである。

しかし、操体を深く知っており、操体の盲点『動けない、動診がとおせない患者はどうするのか』を知っている実践者がいた。三浦理事長だ。
橋本敬三先生が『運動系の定義』の中で筋骨格系と皮膚まで含めた軟部組織と書いておられることを思い出し、『関節の八方向に対して、皮膚も八方向で分析してみたらどうだろう?」という問いから生まれたのが『渦状波(カジョウハ):皮膚へのアプローチ、接触による感覚分析』である。

運動系:硬組織なる骨格を基盤として、これに付着する筋肉を主体とし、これが緊張弛緩する時に同調する皮膚までを含めた軟部組織とか成り立ち、主作用はもちろん身体運動であるが、身体の支持作用と、運動系が形造る体腔内に、内臓および中枢神経体を支持保護する作用を営む。正確に言うならば横紋筋系運動系と称えられよう。そして、その内部に興奮伝達の末梢神経系と、栄養代謝の末梢循環系とを包含している。『生体の歪みを正す』176ページ

思考レベルには四段階ある
レベル1:自分という境界内に視点があり、過去の情報をダウンロードするだけの状態 典型的反応:「ああ、それならもう知ってるよ」
レベル2:自分という協会の周辺に視点があり、事実にもとづく判断をしている状態  典型的反応:「なるほど、事実はこうなんだ」
レベル3:自分という境界線の外側に視点があり、他者に感情レベルで共感できる状態 典型的反応:「あなたの気持ちがわかります」
レベル4:境界線は開かれており、自由な視点でより大きなものと繋がっている感覚  典型的反応:「私が体験したことは、うまく言葉で説明できないのだけれども、何か大きなものと繋がった感じがします」

この四つなのだそうだ。何かを成し遂げる場合、レベル2までは論理の積み上げと、事実の認識と自分の領域を強固に守っている段階だ。ここまでだったら誰でもやろうと思えばできるのだ。例えば同じ戦略(顧客取得計画?)を立てても競争できるのは価格だけなので、価格競争になる(私達の業界であれば、施術料を下げるとか)。私はクイックマッサージなどは経験がないが、一時期クイックマッサージが不当に安い価格で提供された時期があった。それ以降クイックマッサージの店は減ったようだが、ダンピング→新しいものが生まれない→利益減少→体力低下、となってくる。また安い価格で提供するために、アルバイトを安い賃金で雇い、スキルが低いままの技術でサービスを提供させるので、施術側も顧客側にも不満が生まれる、という悪循環が起きたのではないだろうか。

そういえば、一時期リフレクソロジーのサロンが流行った。リフレクソロジストの養成校に勤めていた方に聞いたところによると(当時)、スクールに通ってくるのは主にOLで、『手に職をつけたい』とか『リラクゼーション系の仕事をしたい』という理由が多かったらしい。会社をやめて2〜3ヶ月の講習を受けてから、実際にサロンで研修を積むわけだが、サロンでの施術で結果が出ず、結局はやめてゆくケースが多かったという。中にはリフレクソロジーに向いていて独立開業というケースもあるそうだが、脱落するほうが多い。

ちょっと一例を挙げてみたが、これって「レベル1」にも満たないような教育で現場に出してしまっている(現場で慣れろ方式)ので脱落するのだろう。ちなみに『現場で慣れろ』方式をOJT(On the job training)と言っている場合もあるようだ。

いきなり業務を行わせ、いざという時のフォローだけ行うことをOJTと称することがある。指導する側の指導やチェックが確実に行われ、指導される側が報告義務を欠かさなければ成果を出せるが、指導する側・される側のどちらかに問題があれば、成果は期待できない。結局、OJTの要諦は、意図的・計画的・継続的の3つであり、これを欠くものは本来のOJTではない。(wikiより)

これを操体で考えてみると、やはりレベル2までは皆行くのだ。しかし、それから先に躓くケースが多い。というかその後が面白いのに、そこで勉強をやめてしまうのである。

レベル2で終わらず、レベル3、レベル4まで行くにはどうしたらいいのだろう。ちなみにレベル2と3の間には大きな断層があるという。レベル2までは何とか皆辿り着くものの、3まで行くのが大変なのだそうだ。

そして、レベル3からレベル4にと行くまでの段階には「手放す」という段階があるらしい。既存の経験、知識を全ていったん手放すのだ。一流の人達は誰もが例外なく「手放す」という感覚を味わっているという。自分が一流というワケではないが(いや、操体専門家として一流でありたい)、『手放す』という感覚に共感するところは多い。

三浦理事長は操体を学んで15年近く経ってから、橋本敬三師の『きもちのよさで良くなる』という言葉をきっかけに、それまでやっていた『対なる二つの動きの比較対照』分析を手放した。そのお陰で『楽ではなく快適感覚による分析法』を確立した。これは橋本敬三先生の悲願でもあったと思う。そのお陰で現在の操体があると言っても良い。三浦先生がそれまでの操体を手放していなければ操体はどうなっていたのだろう。

身近なところで言えば、1999年に書いた私の最初の本「ふわ、くにゃ、すとん!操体法」。これは1997年頃から企画を始め作った本だ。監修は私の最初の操体の先生、小林先生である(小林先生は三浦先生の受講生の受講生だということを後で知った)。当時は身体運動の法則に関する理解が今とは違っていたし、商業出版であるが故に多少の妥協もしている。間違いや手直ししたいところもある。なので、自分のサイトで「自著を斬る」として改訂訂正事項を書いてある。私の中でこの本は『手放して』いるのである。なので今現在あの本を出されて(それも改訂訂正事項を読んでおられない方に)質問を受けても既に『手放して』いるので、『申し訳ありませんが、色々直したいところがあったのですが、第二版の予定もないので、ホームページで訂正修正箇所をご覧下さい』というしかないのである(断っておくが、装丁やイラストは素晴らしい本だ)。

また、1999年の全国操体バランス運動研究会で、三浦先生が『快からのメッセージ』を上梓され、それを読んだ時、私は今までやっていた『操体』を手放す事を決意した。それまでやっていたのは、最大圧痛点を押さえ、緩む位置に関節を誘導して脱力に導くというものだった。これでは「痛みが消える箇所」「快方向に動かして脱力」となっていたが、ここで言う『快方向』は『快』はなく、『楽な方、可動域がある方、圧痛硬結が消える方』であり、100%『快』に近づくものではない、ということに気がついたからだった。まあ、手放すに当たって色々あったが、結局は手放す事によって、操体の臨床家としての今の自分がある事を考えると、「手放す」ことの重要性がよくわかる。
しかし、それまでの「操体」を手放したといっても後々には役に立つこと、一層役立つ形で戻ってくるので心配はいらない。

私の昔の受講生に、非常に頑固なヒトがいた。最初は瞬間急速脱力で指導していたのだが、私は比較対照で楽をききわけさせて、瞬間脱力させる方法(第1分析)をやめて、一極一比(二方向の動きを比較対照するのではなく、ある一つの動きを試し、快適感覚のききわけをさせる)の分析法(第二)に移行していた。第二分析のほうが有効であったが、その方は『自分が習った時は、瞬間脱力だったから、自分はそれを貫く』と言った。『教えた私が変わってもですか?』と聞いたところ『そうだ』と答えていた。本人曰く、頑固なので一度覚えたらもう代えるのはイヤなのだ言う。これを聞いて私も少し複雑な気持ちになったが、教授した人間が手放して変化しているのに、ついてきてくれないのは少し寂しくもあった。

『手放す』というのは今まで学んできたことが全てが無駄になることではないのだ。

ちなみに私は色々手放してきたが(笑)結果オーライである。