東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

キューピーちゃん!?

「先生の事、うちではキューピーちゃんって呼んでるのよ。」と患者さんに言われた事があります。絶句しましたが(笑)。
いったいどんな会話が交わされているのか、想像に苦しみます。周りの患者さんも可哀想に、笑うに笑えず堪えるのに必死で、お気の毒でした。世界中にいらっしゃるキューピーファンの方、申し訳ありません。僕が言ったんじゃありませんからね、病人さんのおっしゃったことですから、お許しいただきたいと思います。
キューピーちゃん好きな方に闇討ちに遭いたくないので、似てるというつもりは全くありませんが、あえて部分だけ取り出すとね、似てるかもしれませんね。「髪が生え揃ってない」とか「手足が短い」とか「頭がデカい」とか。
でも「カワイイ」という大事なところで食い違う。残念なことです。
そんな風に部分だけ取り出すと正しいように見えて全体を観ると全く違うことってありますよね。


この前も三浦寛先生にスゴい絵を見せて頂いた後、先生とそんな話になりまして、とにかく本物を一流のものを観ろと教えていただきました。三浦寛先生も橋本敬三先生をずっと見て来られて、段々に師匠のされる事がわかってくる、師匠と目線が近くなってくる、似て非なるものを見ても、何かがおかしい雰囲気が違うそんな事が見抜ける眼が出来てくる、と仰っておられました。

昨日もお話ししましたが、昔アホほど映画を観ていた時期がありまして、実際余計にアホになりましたが、そうやって観ているとだんだん映画の良し悪しが分かるようになってくるんですね。
とてもウマい、ウマいんだけど何ともない映画がたまにあります。逆にウマくはないんだけど心が動かされる、そういう映画もありますね。最初の何秒かとか、途中のワンカットだけを観ても何となく伝わってくるものがある。いい映画はただ誰もいない部屋の中を撮っただけでも何かがある、これをどうやって撮るんだろう?ずっとそんな事ばっかり考えてました。
似て非なるもの、その違いがどこから、何から来るのか。
今になって僕は、作り手、送り手が、感じ取っているか、感動しているかが違うんじゃないかな、と思います。言い方を変えれば人の意識におもねているか、コントロールしようとしているか、それともからだ同士でいのち同士で響き合おうとしているのか、その違いでしょうか。映画はフィクションですが撮影は現実です。フィルムにはどうしてもその現場がどういう空気になっているかが映り込んでしまう。いい映画には現場の人間同士の響き合いといったものが映っているのだと思います。これは映画に限らずいいものに共通して言える事じゃないでしょうか。
ひとをモノと見るのかイノチとして見るのか、コントロールするモノとして見るのか、響き合うイノチとして見るのか、確かに心もからだもモノとして扱えば、機械的に物理的に動かすことは出来ると思います。でも感動すること響き合うことは出来ない。


操体でも、やるのは人間同士同じいのちですから、触れているということで伝わるもの、伝わってしまうものがたくさんある。そういう意味では響き合えるかどうかはすぐにからだに分かってしまう。小手先の事が通用しない。お互いの在り方がハッキリ出てしまうのですね。生き方が問われているのだと思います。とかく「わかりやすい」「簡単にできる」というイメージが操体には有ると思います。でもシンプルだからこそ要求されるものは厳しいものなのかもしれません。

E=mc²がEとmとcと2で書かれていることはアホな僕にも分かりますが、この式が導き出される為に必要だった数多の天才たちの思考がどんなものなのか、この式が現実に意味するものは何なのかを実感することは僕には出来ません。自然の摂理を解き明かすというのは、導き出されたものがシンプルであればあるほど、厳しい道のりを要求されるものだと思います。シンプルイズベストには賛成ですが、この「シンプル」というのは究極に洗練されたものを言うのであって、「機械的」という意味で「単純」な訳じゃない。「誰にでもできる」というのはみんなが共通に与えられているイノチそのものに適っているからということで、「感じとろうとしていなくても、いい加減にしても効果がある」という事じゃないと思います。