おはようございます湘南にも朝がやって参りました。
岡村の二日目もよろしくお願いします。
長かった子供達の夏休みもそろそろ終わります。
他の季節とは違うのが今なんですよね。
普段静かな場所も、朝から本当に賑やかなんです!
本当に楽しんでいる子供達の声は、聞いているだけでわかりますから。
机の上では学ぶことの難しい、色々な感覚を育てる経験を積みながら、子供の頃から感性を磨いて欲しいナァ・・・なんて思いますネ。
宿題を、夏休み最後までやらないで残してしまっていた自分を思い出せば、
自分の子供を叱ることが簡単でなくなるのも、つくづく実感しております(そんなの遺伝しないはずなのに・・・笑)
さて今日のテーマはそんなマクラから入ってみます。
暖かな季節から暑い季節になってくれば、生命賛歌の歌が僕を踊らせる。
朝早くから太陽の眩しい光が僕を狙って射る。
幸いかな、自宅近くに海があるのは。自転車なら十五分で行ける海がある。
この時期の湘南は、決して綺麗な海水とは言えないこともあるけれど・・・。
海水浴というのは別に入らなくてもいいのです。
海水の近くに行って、眺めているだけで水飛沫も飛んでくるし、潮風も浴びる。
そこには本当に?飛んでいるヒトもいる(サーフィン、ウインドサーフィン)
心が飛んでいるヒトもいる(男女が海辺で一夜を過ごせるのも、この時期だけ?)
江ノ島近辺には、釣りをしているヒトも多い。
堤防や突き出た岩場には、朝早くから帽子をかぶりベストを着た人たちが一杯。
そんな中、夏休みの子供達と浅瀬の生き物を探してみる(潮だまりに結構いますよ)
小さい貝、子供のクラゲ、カニ、ヤドカリ、イソギンチャク、フナムシ・・・。
ふと、自分の小さい頃を思い出せば、本当にいろんな生き物を捕まえていた。
山に入って虫採りや魚採り。
小さかった頃、採ってきたらほとんど殺してしまうんです、僕の場合は。
はっきり言って残酷なコトをしていました。
餌もあげずにそのまんま放って置いたり、喧嘩させて遊んだりしていると弱ってくる。
面倒も見なければ、テレビも見ないで、生き物に遊んでもらっていた子供時代。
大人になってから子供達に、
「生き物をいじめてはいけないよ」といってしまう。
全く無邪気にただ面白がっているだけなのに。
苦労して捕まえたから、得意になって見せつけたいだけなのに。
大人になっている僕は、
「可愛そうだから早く逃がしてきてあげなよ」って言っている。
子供達は、何が可愛そうなのか?よくわかっていないはずなのに。
よくわかっていないことって、体験してみなければ実感が湧かないのだろうか。
何かをイメージするのには、効果的な学習方法があるのだろうか。
実体験に基づいた“リアル”な話をして聞かせてあげること。
“百聞は一見にしかず”見せてあげること。
実際に、肌(皮膚)をとおして自分自身で味わうこと。
僕の場合、肌をとおして味わってきたものが大きいようだ。
あの力強く素早い動き、あの離れているところからの駆け引き、あの息を殺す瞬間。
あのヌルッとした感触、あのビクビクする痙攣、あの嗅いだことのない臭い。
チョット猟奇的表現になってしまいました(笑)
実際、楽しいことは大人に怒られてしまうことが多かったんです。
川遊びで靴まで水浸しになったり、日が落ちることを忘れて夜遅くなってしまったり、
僕は子供の頃に、狩猟的な感覚をも養っていたような気がするのです。
今の子供達は優しい心を持ってくれるのでしょうか。
それは、子供自身の肌を通じた感覚であって欲しいものです。
ヒトは体験からイロイロな可能性を創り出せるし、生み出すこともします。
それが実際に体験した者でない、仮想空間での学習のみならば、
その、結果そのものを現実と結びつけることは難しいのではないでしょうか。
(勿論方法によって、可能ではあるにしても・・・)
自然相手にしか学べないものがあるように、
ヒトは多くのヒトと接することで学んでいるのでしょう。
そこに意欲と目的が伴っていれば、希望は育っていくのです。
夢も現実になるという可能性は、あきらめないこと。
いつでも準備さえ整っていれば、身近なところから与えられているのではないでしょうか。
それでは、こんなところで失礼致します。皆さん、今日もお元気で!!