東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ききわけられること、救われていること

皆様おはようございます。

岡村がお送りするブログもお陰様で五日目を折り返しました。
もう少しお付き合い下さいますようお願い致します。
こうして”書く事”で、普段から自分が何を考えているのか・・・を、
客観的かつ、冷静に見つめたりしますから有り難く思います。
まさに、
橋本敬三師、そして三浦理事長が先人として、私たちに向けて伝えているメッセージにはウソが無いのですね。
(ウソか本当か、とにかく試してから、物事を確認するにはそれが一番納得できると言うことです)

さて、
昨日のブログで、三木成夫氏の「遠の記憶」を取り上げましたので、
その一部から抜粋して補足致します。

「体細胞が(植物)が、地球からいわば一個の衛星として分かれた遠い過去の物語を、
 そのDNA載らせん現象がひとつの『生命記憶』としてこれを受け継いでいることを
 意味するものであろう」

「(動物も)同じ生体の細胞である以上、そこには上述の植物に見られるような
 『遠』の”記憶”がなければならない」
                             〜三木成夫

ここで三木氏が言っている、『遠の記憶』に”快の情報回路スイッチ”と”不快の情報回路スイッチ”も勿論、含まれているだろう。

だからこそ、バランス現象とはボディの歪みとバランス制御装置の関連として、
大脳辺縁系と大脳新皮質、神経と血管、感覚感受性と皮膚のつながりにおける可能性、
そして原始感覚の関連性は注目しておきたいですね。
 
それから、
操体は、何でも入れられる器」〜山野実行委員曰く〜であります。
ですから、基本的には”排他的”であったりしないんですね。

”受け入れ”て”生かすこと”・・・が出来ないようであれば、
どこかで振り返って自分自身の捉え方、を試しに見つめ直してもいいのかもしれません。

操体は、何でも”生かすことが出来る器”のようなものだ」〜三浦寛理事長語録より〜

その通りなんですよね!操体とは、
ラジオ体操を今週の始めに取り上げましたように、入れたら生かすことが出来るのです!!

もう一つの例に、”ストレッチ” がありますけれど、この方法と操体は相容れないと思いますか?

答えだけは言ってしまいます。
「入れられない、生かせない、そんなことあるわけがないですよ〜!」

説明のようなお楽しみは、後々まで取っておくモノです。
そして、満を持して?
11月に開催される、秋の東京操体フォーラムに参加頂ければ全てが解決すること請け合いです!!
内容および詳細は、このホームページ上で今すぐチェック!!(アッ、ブログ読んでからにして〜笑)
皆様のご参加を、実行委員一同、心よりお待ちいたしております

論より証拠、百聞は一見にしかず!!です。

えっ待ちきれないですって!?
そうだ!!そんなあなたにも朗報があります!!

9月23日に千葉県の行徳にて、平相談役が活躍されているゴールドジムをお借りいたしまして、
臨床家による操体セミナーがあります。そこでヒントにがあるでしょう!じらされるのが苦手な、あ・な・た・も是非どうぞ!!
とにかく是非!参加して下さいませ〜。
(テーマは、〜セルフメンテナンス体験と施術の実際〜詳しくはこのホームページ上にてチェック!)

では本日のお題です。

『気持ちの良さを聞きわける』こと。
『もともと救われているイノチ』について考えてみます。


そのヒントを多く教えてくださっている橋本敬三師は、

著書の中で(正体の歪みを正す331ページより抜粋)

〜絶対完全健康正体は 理想像であって、法則随順の程度に従って、
 より正体に、より健康に、すなわち、より幸福に近づきうる。
 
 しかし人間は”自然法則”に背反する自由も与えられているのであるが、
 背反すれば歪体化する。

 これは現象界における因果応報の自然法則である。
 自然法則ほど恐るべきものはない。

 各人の健康度は、営みの成績表であるから、
 落第もあれば及第もあり、成績優秀者もある。
 
 健康は自らの責任において克ちとるべきものである。
 これが医の道の哲理、論理、倫理、である。

 筆者は身体運動を専攻して、この結論に達した。・・・と、書かれています。


そして私が“今、ココ”で考えてみたいこと。

それでは一体、“自然法則”とはどのようなものなのでしょうか?

最近そんなことを感じたのが、今顧問の風鈴随想(医道の日本8月号に掲載)です。
(流石の楽しいアレンジで、「カレーライスとカミちゃん」が秀逸でしたネ)

私も何となく、お母さんのような“神チャマ”という親しみが湧くイメージもあります。
しかしある一面ではとっても恐い、お父さんのような存在であるような気もします。

ほんの少し真面目に考えてみれば、
全世界とか宇宙をも創造された存在が、そう簡単に目に見えるはずがありません。
自然法則そのものが、常に目に見える形をとる、とは・・・限りませんからね。

何かの力が働いているとしか思えない=サムシンググレートでもいいですし、
言葉では“神”、納得できなければ“お天道様”、“八百万の神”、でも構わないのです。
自然法則とはきっと、“永遠”にして“不変”であって、“絶対的”なものでしょう。

う〜ん・・私達“ヒト”においては、どのようなことになるのでしょうネ。

“成すべきこと”と“成すべきことでないこと”を知るというとらえかたはどうでしょうか?

例えばある一面においては、
“科学”の世界では自然界の“理”の法則を研究していくことであって、物理学・化学等かもしれませんし、

また、善いコトと悪しきコトを学んでいく過程においては、
“善”性の探求そのものは、“霊性”(心の支えとか、心の根っこ)の中にそれを求めて実践するのかもしれません。


橋本敬三師は、著書『からだの設計にミスはない』の中で(178p〜)、

「肉体を自我だと思い、現象を実在だと思えば、たえず自己防衛の恐怖心から離れることは難しい
 〜中略〜
 釈迦もキリストも、この世(現象界)において互換にうつる肉体人間を生命と思いこみ、
 自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは放蕩息子のようなもので、
 無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだ、
 という例え話を二人とも説かれている・・〜以下省略〜・・・」

と、教えて下さっています。

更に、その章にある一節にはこうあります。

「現象以前の理念の人間は大生命そのもの、という縦の真理と、
 現象界は唯心の所現という横の真理とがある由である」

ここに、”救い”と”報い”のことを理解するヒントがあるように思いませんか。

私はこの章を、この言葉を味わいながら、じっくりと有り難く頂いております。


また、「“総括”地上生命体の設計にミスがなし。これを“救い”という。宗教哲学の終点」・・・と、橋本敬三師は書かれています。

私もいつか、このような境地にいたる事が出来るのだろうナ〜、と呑気に考えていたのですが、

三浦寛理事長のもとで学ばせて頂く機会を得て、実行委員の皆様とフォーラムを通じて、勉強会を通じて学びあえる有り難き環境の中、

生活の中、臨床の中で、フッと気がつかせてもらえるんです・・・・。

”明らかに自分を超えている自分の存在”に感じていたりするのです。

つまり、自分でも”よくわからない”臨床がある!ということです。

もう少し俗っぽく言えば、僕の予想を超えている患者さんの喜びの声、そのものの”質”が明らかに上がっているのです。

患者さんの治り方そのものが、僕の出来るであろう臨床の限界を超えている(ことがある)ということです。

ここのところは理解が追いついておらず、現時点においては上手に説明できません!何とも、”歯がゆい”もので・・・・、

私がこのように尋ねると、三浦寛理事長曰く、

「(岡村でも)誰でも、わかるようになる、だから妥協するな」・・・なのです。


フォーラムに参加された方はご存じかと思いますが、東京操体フォーラムの実行委員は本当に”熱い”集団なんですよね〜。

実際、こんなに勉強嫌い、努力嫌いであった私でも、(ヒイヒイいいながら?)

耕してゆく喜びを味わっていけるのですから素敵なんですよ。


どちらにしても、自然法則の理解に必要なのはきっと、

『何が自然で、何が不自然なのか、“感じられる”』のか、ということ・・・ではないでしょうか。

私達ヒトが、
この地球上に誕生してから亡くなるまでの間、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という感覚に、
かえって囚われてしまっているような、その不自由さに気づいていくこと。

自然法則の応用貢献そのものを耕して行く、成していく過程において、
自分自身の霊性に刻まれている、“本来の良心”を思い出して欲しいのではないでしょうか。


あのピノキオは、
人間の子供に戻る前に、様々な体験をとおして学んでいくのです。
心弱きヒトのもつ、欲望の醜さをも味わっています。
そして、コオロギのジェミニィ(良心)に助けられながらも、
なんとかゼペットさんの元へ帰ることが出来、ヒトの子供になるのですが・・・、
きっと本当の物語は、ここから創られていくのでしょうね。

自然法則に適うルートを教えてくれる、このジェミニィ(良心)こそ、
“気持ちがいい”ってコトを、からだに聞き分けて、
自分自身どれだけ味わうことが可能なのか。
そして裏をとれば、
“気持ちが悪い”ってコトを、快く(はやく)感じ取ることができるかどうか。
ではないでしょうか。

あの宮本武蔵に関係した“沢庵禅師”の言葉に、「石火の機」と云う言葉があります。
“機”というのはつまり、
感じた瞬間に変化が始まっているということですから、
火打ち石を打った瞬間に火が出ますが、その瞬間には全くスキマがないのです。

ですから、
気持ちが悪いってコトを“感じ取った瞬間”に、“からだ”は変化している筈なのです。
このような感覚は元来ヒトの持っている感覚であり、
どこかから仕入れてくるようなテクニックではないはずなのです。
だから、(ウロチョロと)探しても・・・、(パタパタ)くっつけてもらっても・・・、
勿体ない回り道をしている可能性ってありませんか?
<注:()内は何となく私がイメージで何となく、あてがってみただけです>

操体の重要ポイントとして、橋本敬三師の言葉、

「原始感覚、気持ちが良いか悪いかが わかるから有り難い」とありますように、

自然法則は“操体そのものの器”ともいえるのです。

それに、橋本敬三師がテレビやラジオ出演の際、自身の行なっていることを紹介する手前もあり便宜上、
操体法と“名称”を付けたと聞いております。

フォーラムでは三浦寛理事長、畠山常任理事も、”親心から発している言霊”として、口を酸っぱくして言って下さいますよね。

キーワードはやっぱり、「気持ちの良さを聞き分ける」っていうことなんです。

では今日はこのあたりで!!ありがとうございました。