東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

じゃがいも?

畑をやっていて教えてもらったのは「放っておいても何にもならない」ということ(笑)。農家の方に叱られますが、アホというのはこういう事もわからないで生きているんです、すみません。
アホついでに書かせてもらえば、その他にもわかった事があります。その一つは「トマトの苗からはトマトしか、じゃがいもの種芋からはじゃがいもしか出来ない」ということです。これも農家の方に叱られそうで申し訳ないんですが、こんな事も実感しないで生きてたんですね。
「オレは、実はじゃがいもなのにどこかでトマトになろうとしているんじゃないか、ガンバればいつかはマスクメロンになれると思っているんじゃないか」と思いました。
そして思ったのは「自分はじゃがいもなんだろうか、トマトなんだろうか、それとも他の何かなんだろうか」自分に適った生き方は何なんだろうかという事です。
ある日頭のテッペンに真っ白な花が咲くとか、お尻に黄色い実がなるとかすればわかりやすくて便利なんですが、残念な事に自分が何者なのかという事はなかなか分かりません。



世の中にはいろんなパターン分析があって、人間をいろんなやり方で分類しています。星座だとか血液型だとか人種だとか環境だとか。みんな知りたいんですね、自分が何者なので、周りの人が何者なのか。
ですが、その時はなんとなくわかったような気がして落ち着くような気になっていても、なかなかそこに自分自身が納まってくれない。さっき当てはまっていても次の瞬間にははみ出してしまう。生命というのは納まらないものなんですね。実はパターン分析というのは「自分」の一時の安心の為にあるのかもしれません。操体が症状・疾患にとらわれないというのも、今この瞬間の生命の在り方ががそれでは捉えられないからなのでしょう。



これも畑をさせてもらって分かったんですが「生えないものは生えない」んですね(当たり前でスミマセン)。
日向に向かないものは日向には育たない。またタイミングもあって、他の植物が先に根を張っているところには、たとえ育てる環境に見えても根を張る事が出来ない。ひとつひとつの植物が生えているのには必然があって、まわりとの調和の中で今ここに生かされている何かの理由を持って生きている。
じゃがいもだって、鏡で自分の姿を見て「オレってぇー、じゃがいもだからぁー」と思ってデコボコしてみたり、「どうせぇー、トマトじゃないんだからぁー」と思って赤くなるのをガマンしているわけじゃないと思うんです。まわりとの調和を感じ取って生命力を発揮させることで、自分の姿を見ることはないのに自ずとじゃがいもはじゃがいもらしく形を成していくんじゃないでしょうか。

人間は植物と違って移動出来ますが、やはり広い意味での根付くことが出来る場所とそうでない場所があって、今ここにこのタイミングで生かされているということには、それだけの訳があると思うんです。
いつか、どこかで、こうなったら、ではなく、今、ここで、この状態でのまわりとの調和を感じとることで、自分が本当の形を成してくるのかもしれません。

案外自分が何者なのかについての答えは、自分の内側に向かうのではなく、まわりとの関係に目を向ける事で見つかるのかもしれません。とすれば、まわりとの境界線でもある皮膚に何か手がかりがあるのかもしれないな、自分の存在は皮膚にあるのかもしれないなぁと思ったりしています。


山本明