東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

甥っ子の入試


おはようございます、今日はブログの5日目。
「小松広明の4日間」の予定でしたが、お楽しみは後日に残しておくというのも、ノー天気ならではの作戦であります。
まだ、明日、明後日とありますので、急遽予定変更。
誠に申し訳ありませんが、甥っ子の入試というブログに致します。

        甥っ子の入試

昨日の3月24日、愛媛の実家から弟の息子が、入試の為上京。
叔父の私としては、全面的に協力するため、入試合格作戦を練ってはみるもの・・・特になし。
ただ、受験する大学が、我が母校・筑波大学となれば、キャンパス案内ぐらいなら出来ます。そこで、10年ぶりに甥っ子を連れて行くことになりました。
1時30分、品川駅で待ち合わせ、秋葉原へ。
10年前、硬式野球部監督の功刀(くぬぎ)靖雄先生が退官されるときの記念パーテイーに出席して以来のつくば。

10年前は、常磐自動車道が東京からつくばまで開通し、距離が一挙に縮まりびっくりしたのですが、今は、つくばエクスプレス

まるで、つくばが、東京の一部!!
もう、これには驚きました。ポカポカ陽気の関東平野を居眠りする間もなくつくばへ。

30年もその昔、ボール、バット、ヘルメットを常磐線車内に運び込み、東京へ野球遠征の旅に出ていたころの記憶が、かさぶたとして、はがれ落ちるような感覚。

記憶としての風景が、現存する風景の中から浮かび上がり、当時の出来事が湧き上がっては消え去ります。

30年という時空を波のように漂い、立ち止まり30年前の自分との遭遇に寄せる期待。

錯綜する想いの中、突然、見覚えのある像が・・・

「あっ、晝間(ひるま)先生!」

右手を天空へ、左手を前方へ伸ばした男性像が芝生の上に毅然と立っています。
私が大学時代に師事した晝間弘先生の作品。
晝間先生は、長崎の平和記念像の作者として有名な、北村西望先生の弟子。

「長崎の像の下半身は、僕が作ったんだよ。」とお酒の席で話しておられたのを良く覚えています。

実直なお人柄で、その誠実な姿勢がそのまま作品に現れています。
像の前に立っていると、思わず頭が下がり。

「すみませんでした・・・」

日頃のノー天気さを認め、どこか後ろめたい思いを持ち続けていると、誠実な魂の塊に出会う時、思わず懺悔してしまいます。
もうこれは神様に対する畏敬。

明日から、しっかりやろう!(今からじゃないの?)と思うのであります。

しばらく経って、甥っ子を連れ、学生会館にやって来ました。


私が学んだ体芸棟を背景に、ピース


随分な様変わり。
「おじさんが、初めて展覧会をしたギャラリーに連れて行っちゃるけんの(行ってあげるよ)」

と31年前に初めて個展を開いたギャラリーに行ってみると、空間そのものが変わってしまい、もうありません。
そのかわり、筑波大学の歴史紹介のサロンがありました。

そこには、東京高等師範東京教育大学筑波大学の学長や著名人が大きなパネルで紹介されています。

まずは、柔道の創設者であり、東京高等師範の創設者、嘉納治五郎先生、またノーベル賞受賞の朝永振一郎博士、江崎玲於奈博士ら、筑波大学にゆかりのある方々のコーナー。

歴代のオリンピック選手。体操の遠藤幸雄選手、小野喬選手、加藤沢男選手。
甥っ子とこれらのパネルを見ながら、

「おいちゃんな、この加藤沢男さんとは、いっしょにお酒のんだことがあるんぞ。
大学入って直ぐの頃は、飲み屋がないので、バスを改造した飲み屋が、学校の中に来て、みんなでワイワイ飲んどったんよ。その中に加藤沢男さんがよう、おった。」

当時、加藤沢男さんは、教授(あるいは、講師)として大学におられました。

「おう、この石原恒和ポケモンの仕掛け人)な、おじさんと同じアパートの住人。最初のおじさんの個展をビデオで撮ってくれた人じゃ。」
今をときめくポケモンの仕掛け人・石原恒和氏は、私の所属していた芸術専門学群の1年後輩。

「この三屋祐子さん(バレーボール日本代表)、おじさんともしかしたら、一緒のアパートに住むようになったかもしれん人じゃ」
3人で台所、トイレ兼用のアパートで共同生活!もう少しで三屋さんと、生活することに・・・しかし、結局はお流れ・・・

ちょっと、意味深(今は死語?)ですが、共同生活をしていた野球部の後輩が引っ越しするので、三屋さんを大家さんに紹介。
私が、必然的に同居人となるはず・・・でも、男女の共同生活は・・・協議した結果、やめることになったのです。

等々、甥っ子に説明をしていると、甥っ子も、たまに里帰りする“おじちゃん”の存在感をやっと知ったようです。

そのあと、野球場に行き、後輩にあたる選手と雑談。
何と、現在は120名もの大所帯。今年も120名の受験生
が30人程度に振り落とされる難関。

私がいたころには、こんな球場はありませんでした


草野球の様に、ワイワイと楽しんでいた我々の時代とは、大きく様変わりしていました。

そして、最後にいつもお世話になっていた、“太丸鮨”へ。

「これから、鮨食べに行こう」
「うん」

立派な3階建てのマンションの一階に“太丸鮨”。

やはり、マスターの人柄と腕前が人を呼び、こんな大きなビルを建てたのです。ただただ、感服。
相変わらず、美味しい鮨と楽しい会話。笑顔が素敵なママさんもご健在!30年前と同じ。
私には、つくばでもふるさとがあったことを改めて知りました。

甥っ子もたった2時間程のつくば生活を十分堪能したようです。
こんな貴重な体験を作ってくれた甥っ子に感謝。
ただただ、今日の入試が上手くいくよう、祈るだけです!

では また あした!



佐伯惟弘