東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

 近頃、自分の影にドキッっとすることがある

近頃、自分の影にドキッっとすることがある。都会の生活のなかで「影」を意識させられることが少ないからだ。「ドキッとさせられる」というのは、誰れの影が写っているのだろうかという、ドッキリ感でもある。そう云えば自分にも影があるんだとその時気づくんだね。姿、影なき亡霊でもあるまいし生活している中で、自分には影があるんだって、すっかり忘れて過ごしていたんだなァ〜ってネ。だからと云って自分の存在を忘れている訳じゃないけど。たとえ影がないからといって今あわてることもない。影がなくても十分存在して、たのしめる余裕がある。意識感覚は存在しているわけだから。

私もずい分、ツラの皮が厚くなったなァ。5年〜10年前の自分、どこがかわっているのか、意識のレベルが変わっている。5年〜10年前に存在していなかった自分が居るってことだな。かなり、そんな自分がいるようだ。だからといって違和感があろうはづはない。過去の自分を引きづっている訳でもない。今ここの自分を生きている。今ここの自分が最高であるように、生かさせて頂きたいと、そうある自分を今生きている。

どうしてですか、どうしてですかといちいち説明を求めてくる者がいる。子供でもあるまいし、どうしてですかと聞く前に、自分で考えるのが大人である。こうした人間は、へりくつばかりを口にする。自分で考える、大人になれ。

人は今、想いの中で生きる。今の想いを語り生きている。それは今の想いの中に未来があるからである。しかし現実は、老いたものは過去を語り、若者は未来を語る。その老いたるものにも、その若きものにも今がない。今を語るコトバがない。今を見つめる心がない。

この歳を迎えて、自制していく生き方の中に、なにかしっくりと納まりがついてくる。味わい深き、快適空間が己れの中にあることに気づくのだ。ワクワク、ドキドキ感の快ではなく、しっとりとなじんでとけ込んでくるような、やすらぎというのか癒されてくるおちつき、である。それが静寂と沈黙の我の空間にあるようだ。足がすわるというか、腹がすわるといふのかな・・・・。自分そのものを、自分の次元を越えた観の世界からみれる、みている、それが四次元、五次元なのかはわからないけど、不可視な次元から自分をみるとかなり自分がわかってくるものだ。


三浦寛


写真:伊勢神宮にて