東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

伝わらない言葉

昨年の春、長崎県平戸市沖で、巻き網漁船「第11大栄丸」が沈没する事故が起きた。
「親が死んだことは風流だ。人はいつ死ぬかわからん」
事故の直後、古典の授業中に、担当教諭が遺族の女子生徒の前で発言し、適応障害に陥らせたとされ問題になっているようだ。
読売新聞などでは「暴言」として扱われ、ネットでも教諭への批判が多く起こっていた。
確かに、配慮に欠ける発言であったのだとは思う。だが、これは本当に暴言だったのか。


授業では方丈記をやっており、無常観についての話の流れでの発言だったという。
他のニュース記事を読んでみると、実際に風流という言葉を使ったかどうかは定かではないが、「人の死は風流ではないだろう」とか、「命を軽視しているのでは」との書き込みが見られた。
教諭は若すぎるわけではなく、50代で古典の教師。身近な人の死を少なからず経験して来ているはずであり、命を軽視しているとは思えない。


風流、現代国語辞典で調べてみると、

1、上品な趣があること。みやびやかなこと。また、そのさま。風雅。

2、世俗から離れて、詩歌・書画など趣味の道に遊ぶこと。

とある。
こういう取り方をすると、教諭の言葉を誤解してしまう。前出の批判も無理もない事である。


これらの解釈は後生のものであって、もともとの風流の意味とは違っている。


碧巌録に「不風流処也風流」という記述がある。(風流ならざるところもまた風流」)
東洋には、『私という存在は「揺らぐ存在なんだ」という認識』があるという。
人は六道を輪廻し、十界を旅しながら揺らぎつづける存在である。


「六段階であれ十段階であれ、グラデーションとして認識されているわけです。自分は常々このへんにいたとしても、そこから別の状態に揺らぐということが起こるわけですよね。常々このへんであるということと、たまにこうなるということを含めて「私ですよ」という揺らぎを抱え込んだ人間認識というのが東洋にはあると思うんですね。」
玄侑宗久


この揺らぎが風流である。
感情も揺らぎ、快・不快も揺らぎ、痛みも病も生死も揺らぎ。


教諭の言葉も、正しく伝われば違う反応であったかもしれない。



言葉は伝わらなければとも思う。伝わらない言葉とはむなしいものではないのか。
数十年後に分かるかどうかのものではなく、今ここ。
今、この瞬間の揺らぎが風流なのではないかと思う。



辻知喜


8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催