東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

草むしり。

この時期に欠かせないのが、草むしりです。
私は、除草剤とか使うのは、なんだか化学兵器を使うような感じがして、あまり好きではなく、それと夏の時期に除草剤で茶色くなった草というのは、どうも見ていて良い気分にはなれない。
雑草と呼ばれる草にだってイノチは宿っており、この世に生を受けた喜びを表現したいはずだ。
空気と水と光が溢れる地球の大地に芽生えることが出来たことを、宇宙現象創性の創造主にも見てもらって喜んでもらいたいと、葉っぱをみずみずしく、青々と輝かせ、空気と水と土壌と光の恵でこんなに嬉しいのだと、益々その葉っぱを大きくさせ、また風土により種類により、カタチや色にも個性を発揮させ、人間の目には見えない創造主と喜びを共有しようとしているのかもしれない。
そう思うと、時期を迎え繁栄している他の草花を横目に、人間の意にそぐわないからと茶色くなったその姿を朽ち果てるまで、晒しておくというのは、なんだか不憫に思う。
だからせめてもと思い一本一本手で抜いて、土に還しているのですが、これも結構大変です。
みんな個性があって、横に大きく広がるように根を張るものやら、棘のあるもの、葉っぱが異様に柔らかく抜く前に切れてしまうもの、万年筆と万年筆立ての様な構造で万年筆の様な葉っぱはスポンと抜けるのだけれど、万年筆立ての様な茎と根が残ってしまうもの、みんな個性的で、色々あって一筋縄ではいかないが、共通しているのはただ力任せにやってもダメだという事。
やはり、手は小指側を、足は親趾側を利かせて、やってみる事。
草をむしる時は、親指と人差し指ではさむようにして、むしる時もありますが、この場合、草をはさんでいるのは親指側でも、引き抜くのに利かせるのは小指側、尺骨側を利かせるようにした方が良いと思います。
こうすることで、からだの要である腰を中心とした動きになり、指先にも余分な力みが入らなくなり、草が途中で切れてしまうことなく、スポッと抜けます。
これは実際にやってみて、きれいにむしれ、能率的でもあり、自分自身の疲労も少ないことからこう書いているのですが、そういう自然な動きが自分のからだの無意識にもすり込まれているというなら問題ないですが、そうでなければ気持ちを、みんな生かされて生きているという風に切り替える必要があると思います。
「このクソ暑いのにかったるい」とか「こんなところにまた生えてきやがって」という自分を中心にした気持ちで向き合うと、頭では手は小指側、足は親指側を利かすと解っていても、どうもこういう気持ちの方が勝ってしまうようで、不自然な体勢から、こういう気持ちを表すような不自然な動作をしてしまっているというケースが多いように思います。
そうなると、自分のからだに負担を強いるのは勿論のこと、変な力みが入るため表面の葉っぱだけしかむしれなくなるし、草だって「何でこんな奴にイノチを摘まれなければならないんだ」と尚も抵抗したりするのかもしれません。
そんな姿、やり取りを見て、宇宙現象創性の創造主であり、自分に似せて我が子として人間を創造した創造主はどう思うのだろうか。
創造主は自らが創った宇宙現象とその法則の中で、我が子である人間が調和して喜んでいる姿を見たいと思っている筈です。
これは、草にもイノチがあるから、そのまま草ボーボーにして、その中で共生して調和しろというのではなく、人間は自然に手を加え、手入れをして創造する能力があるのだから
その調和を我欲だけで成そうとせずに、親である創造主の理念に照らし合わせて、その中で人間である自分も自然界の一員であり、生かされて生きているという自覚と礼節をもって、調和を成し遂げれば、親である自分は嬉しいのだと創造主が言っているように感じます。
親である創造主と子である人間もつながっていますから、親が喜べば、喜ばせた子も嬉しい。
そこにあるのは気持ち良さですよね。
自分への自戒も含めて書いていますが、気持ちって大切ですよね。


友松誠



8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催