東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

東京操体フォーラムIn京都 番外編 In 奈良

何故このタイトル?と思われた方もいらっしゃるでしょう・・・何度も言っているのですが、再度ご説明しますと・・
この東京操体フォーラムブログはフォーラムの実行委員として活動しているメンバーがアイウエオ順に自分の思いや日々のことを徒然なく綴っていくブログです。普通は1〜2週間前に下書きやら構想などを練って、書いたものを寝かしつつ、再度確認の上Web上にUPするといった感じでしょうか。
あまり早く書きすぎるとUPするときの心情と合わず、何となく納得出来なかったり、特に困るのは今回の様にイベントが絡むと、準備等で地方者は前乗りをするので、準備などで、わらわらしている時にブログを書く心境にならずと、難しいものです。
しかもフォーラム最中のブログがフォーラムとかけ離れた内容でも何だか、しらけますし、考えすぎでしょうが、むむむ。。のむ・・です。
しかも、今回はフォーラムが終了した後、両師匠を拉致し、島根に来て戴きました・・・詳細は又、何らかの形で皆様に報告しようとは思いますが、日本で2トップの『般若身行』のデジタルデータとしての保存です。
カメラやビデオは映像としてのデータは残るのですが、我々臨床家が知りたいのは骨格の動きであり、内部の動きです。それらの動きを残すことがひょっとしたら後生の人々の研究対象になるかもしれません・・・

という諸般の理由から、フォーラムが終わってボチボチ一週間が来ようかというところでフォーラムについて振り返りたいと思います。


とにもかくにも今年の夏は異常に暑い!そう感じたのは前乗りで京都に入った時でした。私と両師匠を始め、岡村理事山本京都フォーラム実行委員長との5人で、フォーラムの前に奈良の北村先生のところにお邪魔しよう!みたいな企画があり、フォーラム初日の前日27日に京都から奈良へと電車で向かいました。
何でも北村先生のお計らいで東大寺大仏を間近、膝元で見せてもらえるとのことで、ワクワク一杯で奈良へ向かいました。
奈良へ着きますと北村先生とお弟子さんお二方と合流し、早速東大寺へと向かいました。個人的には三回目の東大寺なのですが、いきなり通常入り口とは違う入り口からの入場に、ちょっとビビリつつも厳かに進みます・・・
先ずビックリしたのは通常は見ることの出来ない横面からの東大寺本殿を見ることが出来たことでした。
と言いますのが、東大寺は過去に何度か焼け落ちてまして、現在の状態になったのは五代将軍綱吉の治世になってからだったと思います(江戸期歴史不安なり)。今回、左側面から見られたことで、最後に焼失した当時の痕跡を確認する事が出来、私が密かに好きな戦国武将、松永弾正久秀を少し感じることが出来たのが、収穫でした。

松永弾正岡村理事のノリで言えば、信長の野望(By KOEI)では知謀が100以上の武将で、家臣にして前線に配置するとかなりの確率で謀反を起こす武将です・・・日本三大梟雄(北条早雲斎藤道三と呼ばれている位のエグイ武将です。現に岡村理事の大好きな(しつこいですか)第十三代将軍 足利義輝暗殺の首謀者とも言われています。
私に足利義輝のことを語らせるとブログが2回分必要に成る恐れもあるので割愛しますが、剣豪将軍としても有名で、いわゆる嗜(たしな)みでの剣豪ではなく、当時一流と言われていた上泉伊勢守信綱塚原卜伝から教えを受け、一説には卜伝からは「一の太刀」と言われる奥義を授けられ、鎌倉から江戸に至る将軍家の中では一番強い将軍であったと言えます。

スイマセン・・何か気が付くとこのブログ趣旨が段々、歴史を学ぼう!みたいな企画になっているので、徐々に本題に入りますが、最終日のブログにも書くのでダブらない様に書きますが、人間の行動には全て意味があり偶然は存在せず必然なのだ!という天才バカボンばりの言い切り方をすれば、この奈良行きの天の意味を考えました・・・

ああビックリ!これ又ビックリでした・・・
ビックリその1は足利義輝ですが、これは皆さん気付いたでしょう(マニアなら)?
義輝の師匠は先程言いました上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)”なのですが、これは今回、わざわざ東京からご参加戴いていた、柳生心眼流竹翁舎主催の島津兼治先生繋がりのご縁でした・・上泉信綱と言えば「新陰流」の祖であり、この信綱から免状を与えられたのが柳生石舟斉宗巌(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)であり、その子柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)が江戸柳生として江戸で道場を開いていた時の門人に柳生心眼流の開祖竹永直入翁がおられ、宗矩の推挙の元、伊達政宗に仕え柳生心眼流として仙台で息づいたのです(あ!仙台繋がりでも有りましたね・・)。

そして更にビックリなのはちょいワル親父こと松永弾正久秀なのですが、このおじさん、佐伯さん風に言えばかなり面白い人で、色々な書物を残しているのですが、中でも秀逸なのが現代風に言えば『松永弾正のHow to SEX』とでも言うべきドクトル・チエコ先生真っ青のセックスマニュアル本を書いています。
と言っても半分経験から、半分は中国の書物からの引用という感じでしょうか。内容はかなりエグイものから現代にも使えそうなものまでと様々ですが、一部を紹介しますと。
唯一ブログで書けそうな内容なのでこれだけは書いておきます・・・

松永弾正の『五傷の法!』(SEXするべきでない状態とは!の巻)
1.女性が未だその気になっていない時
2.女性が求めているのにせず、したくなくなっている時
3.年寄りで充分に勃起してないのに、女性を無理に責める時
4.女性の生理中
5.酔っ払って遅漏の時

何だか身につまされると申しますか、読んでてブルーになりました・・5番を見た時思わず奥村チヨ「ごめんねジロー」を思い出しました。。
ですが、400年以上前の強烈な男尊女卑の時代にもかかわらず、要は男性上位では駄目だぞ!女性の気持ちを大切にしろ!的考えを説いているのに、感心しました。これ以外にも色々と有るのですが、書くと次回のブログの順番が自然に飛ばされそうなので、これ位にしときますが、この松永弾正の性技マニュアルの元と成った『閨房術(けいぼうじゅつ)』を学んだ師匠が何と、当時、弾正と深い親交のあった曲直瀬道三(まなせどうさん)であったようです。
はい、ご存じの通り今回、フォーラムを行わせて戴いた大徳寺塔頭玉林院さんの開祖曲直瀬正琳の師匠が曲直瀬道三になります。
当時のお医者様は当然のことながら権力者達からの様々な要望に答えねば成らず、その中に当然、健康法も含めた強壮法閨(ねや)術が有ってもおかしくはないのです。

脱線ついでに当時の戦国女性について少し書きますと、私がイラつく某NHK大河ドラマなどは戦国の女性は清く正しく美しく、影で夫を支えながら落城の折には共に自刃する悲劇のヒロイン的書き方しかされていませんが(特に来年の大河の“江”などはその代表)、実は全然違っていて、とても逞しく、力強く生きていたというのが昨今の定説です。

その中の一つが先程、説明した『閨房術』なのです。閨房術は実は戦国女性の嗜(たしな)みの様なもので、大名家やそれに類する身分の女性にとっては、まさしく命がけで学ぶべき術であり、閨(ねや)でのテクニックで殿をメロメロにし、自分の実家に都合のよい人事や加増の確約を引き出していました。

ここまで書いたのでこの際、書いてしまいますが、ここで言うテクニックとは愛を育むと言うよりは殿方を喜ばすという“積極的参加型テクニック”のことで、今で言う禁じ手?などはなく有りと有らゆる技術が開発され、よく聞くところでは、相撲などでよく聞く技の48手とかけて、江戸48手と呼ばれる性技マニュアルがあり、表裏合わせると96手とも言われています・・・その中には更に門外不出の秘伝まで有ったようです・・・
余談ですが、それらお姫様テクニックが後々遊郭での閨房術に繋がって行き、幕末に日本に来た外国人達が日本人の遊郭女性の凄腕に狂喜乱舞したとのことです。

日本人は従来、性に対しては非常に大らかな土壌を持っており、明治維新によりキリスト教の性に対しての厳格な思想が入ってくるまでは非常に奔放で、夜這いの風習風呂の混浴など、数々あります。
この辺りの話しは何故か、畠山師匠と話し出すと止まらなくなりそうなネタで、強壮剤と共に永遠のテーマです・・・

そろそろまとめないと話しが収束しそうにないので、まとめますが、橋本敬三も書籍などでは性に関しての記述が幾つかあり、『からだの設計にミスはない』の中でも第五章の中で“セックスを生涯のテーマにしよう”というタイトルで話されている位に、性に関しては晩年まで研究は怠られなかったようです。
橋本敬三もおっしゃっているように「後味が悪くなければ何やったっていいんだ」深い言葉に色々なことを考えてしまう私でした・・・


福田勇治