東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「継承」〜dos〜その二

「”難しい”、”できない”と言う言葉を使うな」慎みなさいと、三浦寛理事長は教えてくれました。それは操体に限らず、何かをを学ぶうえで、とても大切なことなのですネ。
十年前に一緒に学んだ友人、数年前に一緒に学んだ友人に、これから操体を学びたい方へ僕は伝えたい。「操体ってよくわからない・・・」という言葉を口にしてはいけないヨ。
操体について少しずつ知って生きたい」という言葉を口にしなさいネ。
操体法操体は違う」
これは、創始者である橋本敬三先生も話されている。
社会一般に知られているのは、知られているのは操体法という治療の方法だが、それを操体と思ってはいけない。
操体法に限らず、治療というのは要するに・・変化させる“おこない”のこと。
突拍子もない例えですが・・・「玉子焼きをつくって下さい」と言われたとします。
それに必要なのは何か、玉子と火、そして調理するヒトです。
そこで出来上がったものは、一つとして同じ玉子焼きはできません。
なぜなら、玉子の焼き方や調理器具にこだわる人もいる。
卵そのものにこだわる人もいるし、盛りつけや食べ方にこだわる人もいる。
けれど、玉子焼きになる前に”最低限必要”であり、何よりも重要なことに気付いている人は多くない。卵を作っている何か、火を生み出している何か、人を創造されたなにか。
ワタシにとって・・・操体とは、生み出してくれるもの。
だからこそ、三浦寛理事長は教えてくれる。
操体を学んでいくということは、資質や品性を問われてくる」のだよ、と。
すぐに結果の実をほしがる、実のできる過程を知ろうとはしない、そんな欲があるのが人間です。
しかし、それを求めてくる人に与えていくことでは、欲の火は消えません。
まして、油を少しずつ注いでいるように増していくのです。
嫌なことを避けたいのが人間。
しかし、それを正面から受け止めず逃げていたら、誰かが受け止めなくてはなりません。
生きていくことは相互の交流ですから、言葉になる。
だから、コミュニケーション以外の“何か”が問題となってきます。
非言語による干渉は、一般的に見えません。
耳で聴くこともできない、鼻で嗅ぐこともできない、舌で味わうわけにもいかない。
それでも五感を通じて学習してきたことは、二通りあります。
知識による好き嫌いと、本能的な好き嫌いなのです。
ほとんどの人間は、大人になるにつれて知識に偏重するようですが、
これは“色欲”でもあります。宗教によっては“罪”とか、“業”というのかもしれません。
そして、操体では「楽」を欲張っているという状態なのかもしれない。
植物や野生動物は、「楽」を求めたり、欲張ったりすることはありますか?
人間からすれば「なんでわざわざ大変なことをするんだろう?」と、考えてしまうことを、
ただ当たり前のように親から子へ伝えていますネ。
橋本敬三先生は、「原始感覚を磨きなさい」と指示しています。
これは本来、イノチの要求とは謙虚であり、他人と比較したり、「自分が楽をするため」に活動しているのではない。
このようなことも徐々に理解できるようになります。
なにより、生命の本質とは“在ること”だと思うのです。
それは派手ではありませんし、刺激的でもありませんが、噛み締めるほどにわかってくる。
これこそ操体で伝えている「気持ちのよさ」「快」なのであります。
これが感じられるかどうか?でこの世の中が天国にもなり、地獄にもなるのです。
それを選択し決めるのも、人間が産み出している“心”であれば、行動を選択できる自由は自分にある。

十二年前の三軒茶屋三浦寛先生主催の東京操体法研究会で、一番はじめの講習時でした。
「みんな、生きている今、遺書を書いてみたらどうだろう?」と、私達に問いかけられました。
それから全く、思い浮かばず書いていなかったのです。
折角ですから?今の時点で亡くなる前の遺書を書いてみます。
「人間に生まれてよかった。僕は僕で良かった。そう思えてしかたありません。ありがとうございます」・・・こう書いておきたい。
その為に操体を学ばせて頂いている・・・僕も橋本敬三先生のように、本気で生きていつか本気で死んでみたい。
そして星に願うならば、彼方(かなた)から彼方(あなた)を包み込む愛になって生きたい。
今日もありがとうございました。


岡村郁生


新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。