東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる(2日目)

昨日の続き
からだをくつろがせるというのは、本当はさほど難しいことではない。が、文明の発達につれて、からだとの接触が失われてきたがゆえに、それは難しくなってしまった。今や我々はからだでは生きていない。我々の存在は基本的には、頭脳的、精神的になっている。現代人はからだで愛することすらできない。頭で愛しているのだ。からだはあたかも重荷のように付き従うだけで、誰かに触れるとしても、それは相手のからだではない。そこには感受性はない。頭が触れているのである。しかし、頭が本当に触れることなどできない。そこでは二つのからだが出会っていても、交流はない。からだは死んでいる。二つのからだが抱き合っていても、それは二つの死体が抱き合っているだけだ。我々はからだで生き、からだの中で存在してはじめて本当に抱き合うことができるのだ。
我々がSEXを使用している現状では、それを非常に間違った方法で使っている。その間違った方法は自然ではない。動物でさえ我々より優れている。動物はそれを自然のやり方で使っている。我々の仕方は邪道に入りこんでいる。SEXは罪悪だという間断ない鉄拳が人の心に降り注ぎ、我々の中に、ひとつの深い障壁を創り出してしまった。我々はSEXの中にあって、決してトータルな手放し状態に任せることができない。何かがいつも非難しつつ立ちはだかっている。我々が意識的に「重荷を負っていない! 捉われていない! 自分にとってSEXはタブーでない」と、言うかも知れないが、何世紀にもわたって建てられた人類の過去をそんなに簡単に肩から降ろせるものではない。意識的に罪悪として非難しなくても無意識層はいつもそこに在って間断なく非難し続けているのだ。我々は決してトータルにSEXの中に入れなくて、いつも外に残されているのである。
我々は幽霊のようにからだの外にいる。からだの周りをうろうろするが、決して中に入れない。文明人であるほど、自分のからだとの接触が少なくなる。その接触が失われてしまうと、からだが緊張してくるのだ。本来、からだには緩みくつろぐメカニズムがある。疲れたとき、からだを横たえる・・・が、「自分」はそこにいないために、からだはリラックスできないでいる。我々はからだの中にいなければならない。頭に「我」がいてはマズイ、それはよくない、ダメだ。さもなければ、からだのその緩みくつろぐメカニズムは効果を失ってしまう。自分がからだにいなかったら働けない。からだは自分を必要とする。この「自分」とは、アロンネス、単独という意味だ。社会に存在する我ではなく、独りである自分がからだにいなければならないのである。アロンという言葉はオール・ワン、全一という意味からきている。アロンネスはすべてひとつであり、全体性という肯定的な姿勢だ。一方、我というアイアムネスは消極的で否定的な態度である。
自分がからだの中にいないと、一人では眠ることはできない。くつろげなかったり、眠れなかったりするのは、からだとの接触がなくなっているからである。我々はからだの中にいない。だから、からだは適切に機能できないでいる。からだはからだ自体の知恵で働くことができない。からだには何世紀にもわたって培われてきた遺伝的で生得の知恵がある。この知恵は自分がからだの中にいないと緊張が生じてしまう。そうでなかったら肉体は基本的には自動的なものである。自分がからだの中にいることができれば、からだは自動的に働くのである。自分がいるということが必要なのだ。そのときには、からだの緩みくつろぐメカニズムは機能しはじめる。操体臨床における「頭で考えないで、からだにききわける」とは、頭から「我」がいなくなり、自分がからだの中に存在すること、すなわち自分自身になることなのである。
明日につづく



日下和夫