東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる(4日目)

昨日の続き
頭の理性が緊張という結果を生じ、大勢をしめてくると、神秘的な非理性は復讐に走ることになる。文明先進国は、理性というひとつの中枢を疲労させ過ぎてしまった。そして非理性は報復をしはじめ、秩序全体を混乱に落し入れている。無政府的なもの、無規律なもの、反逆的なもの、非論理的なもの、他にも色々とそういったものが噴出している。それは音楽とか絵画といった芸術の中にも表れている。今、まさに非理性が報復を開始して、既成秩序はその立場を譲りつつある。
現代抽象絵画の巨匠といわれているサルヴァドール・ダリパブロ・ピカソの絵画はどうであろうか? しばらく眺めていると、気分が悪くなってくる、いや、吐き気さえ、覚えるのではないだろうか。理性は全体性ではない。もし、理性がすべてということになったら、文化全体が緊張してしまう。一人の人間にあてはまる同じ法則は、文化全体、社会全体にもあてはまるのである。これらの法則には、からだを通しての理解が必要だ。その理解によって我々に変化を促しはじめ、その理解そのものが一つの変容となる。からだは「自分」がその中にいないがゆえに緊張してしまった。
しかし、我々の精神的な存在は決して緊張することはない。だが、精神的な領域に接触することがない。からだとの接触さえ持てないのに、精神性との接触は決してあり得ない。精神性の方が、からだより深い領域だからである。我々は性行為においてパートナーを触れずに触れることができる、それは難しいことではない。もうすでにそれを知っているはずだ。性行為の中で誰かを愛撫するとき、我々はパートナーに触れないでいる、なぜなら、触れるためには「自分」はその手に向かっていかなくてはならない、手に向かって移動しなくてはならない。自分の指に自分の掌そのものに、ちょうど自分の魂が手に行くようにして、なりきってしまわなくてはならない。そのとき初めて、触れることができる。通常、性行為の中には死んだ手がある。それは触れているように見えるが、触れてはいない。我々は本当には触れていないのだ! 我々は誰かに触れることを恐れている。何故なら象徴的に触れることはセクシャルなことになっているからだ。身体には触れることができる、が、その身体の中への移動はSEXの罪悪感が禁止しているのである。しかし、この無感覚こそ醜悪だ。
自分の外側の境界線との接触すらないとしたら、内なる中枢との接触など到底持てはしない。精神性の領域はいつもくつろいでいる。まさに今この瞬間においてもくつろいでいる。実を言うと、精神性の領域こそ、くつろぎの領域であって緊張など一切ない。それは緊張の理由となるものが精神性の領域では存在できないからだ。我々は精神性の領域なしでは存在できない。しかし、その領域を忘れることはできる。が、その領域がなければ我々は絶対に存在できない。なぜなら、我々がその精神性そのものだからである。その領域は我々の存在であり、純粋な実存なのである。それなのに、からだにも頭にも大変な緊張があるせいで、その精神性に気づいていないのだ。もし肉体の領域や思考での緊張がなかったら、我々はおのずと精神性の至福、安らぎを知ることができる。からだと頭の緊張を解いてはじめて、精神性を深く探ることができ、至福を知ることができる。まずは、からだとの接触をもつことから始めなければならない。からだとの接触には「ただ、感じる」ということが必須条件になる。それには操体の渦状波がとても役立つ。皮膚への接触によってからだに「自分」が戻れるきっかけとなりうる。
明日につづく


日下和夫