東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる(5日目)

昨日の続き
肉体的な緊張というものは、宗教が一役を担っている。宗教は半肉体的な姿勢を説いてきた連中によって生まれた。そして緊張も生み出された。特に、西洋の宗教は強硬に、肉体に反対してきたために偽りの分裂、深淵が人間と人間の間につくられた。そうすると、我々の姿勢は全面的に緊張を生み出すものとなる。
我々はひとつのものをリラックスして食べることさえできない。リラックスして眠ることもできない。からだで行うことはすべて緊張になってしまう。もう今では、肉体は敵になってしまった。しかし、肉体なしでは生きられない。我々は肉体にとどまらなければならない。この敵と一緒に暮さなければならないのだ。そこには間断ない緊張があり、我々は決してリラックスできない。肉体は敵ではないし、どんな意味においても非友好的であることはない。我々に対して無関心ですらない。肉体の存在自体が至福なのである。肉体をひとつの贈り物、宇宙からの贈り物として受け取ることが、もしそれができたならば我々は肉体へ帰ることができる。そして肉体を愛し、肉体を感じるだろう、その感じ方は微妙だ。
自分自身の肉体を感じたことがなければ、他人の肉体を感じることはできない。自分の肉体を愛したことがなければ、他人の肉体を愛することもできない。それはとても無理だ。自分の肉体を大事にしたことがなければ、他人の肉体も大事にできはしない。なのに、我々は自分自身のために自分のからだを大事にすることはなく、自分のからだを愛してもいない。そして自分のからだを愛することができなければ、からだの中に入っていることはできないのである。自分のからだを愛することができれば、そうすれば、我々はいままで感じたこともないようなくつろぎを感じるだろう。
誰かを愛するとき、パートナーの手を取りたい、時には抱きしめたくもなるだろう。愛していれば声を聴くだけでなく、顔も見たくなるに違いない。電話の声だけでは充分ではない。パートナーを目のあたりにすればより満足できる。パートナーに触れれば、より満ち足りる。より以上に満足するのだ。SEXとはこういった二つのエネルギーの深い出会いだ。手を取り合うだけでなく、お互いの身体を抱き合うだけでなく、お互いのエネルギーの領域にまで浸透していく。愛の中にあってSEXは自然な成り行きなのである。愛はリラックスさせてくれる。愛があれば安らぎがある。もし、誰かを愛したら、その時にはくつろぎが訪れる。我々が誰かとともにいてくつろげたら、それこそが愛の唯一のしるしだ。
この愛に導かれたSEXは激しい、しかし最もくつろげるものだ。もし、くつろげなかったら愛してなどいないことになる。そこにはいつも他人という敵がいるのだ。ジャンポール・サルトルは言う、「他人とは地獄だ」と。サルトルにとっては、そこには確かに地獄があったに違いない。二人のあいだに愛という感情エネルギーが流れていないとき、相手は地獄になる。そうあって当然だ。しかし、もしその感情エネルギーが流れていたら、相手は天国だ。相手がどちらになるかは、あいだにその感情エネルギーが流れているかどうかにかかっている。それには自分のからだを大事にしなければならない。自分のからだをいたわり、愛に包まれているとき、必ず沈黙がやってくる。そして、言語は失われ、言葉は無意味になる。自分のからだとの深い沈黙が自分とからだを包んでくれるだろう。その沈黙の中で感受性が育まれる。
明日につづく


日下和夫