東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

人生のパワースポット 愛と性(2)

私が知る家族のなかに、ハネムーンベイビーで生まれてきた子供がいます。子供が云々と言っている訳ではなく、お母さんと良人(おっと)のことです。その女性は、幼稚園から大学まで、カトリック系の学校を出ていました。モラルという点では、かなり厳格な環境で育っています。女子の学校ですから、今のように合コンとか、そんな男女のオープンな場もなかった時代です。だからといって初恋もなかったとは言いませんが、せっくすなしのまま結婚、そのハネムーン先で初体験、そして妊娠、出産、育児、つまり母親になってしまったのです。その初夜からせっくすの歓びを得られる訳にはいかないのです。彼女にとっては、苦痛以外のなにものでもなかったのです。今でも拒否しつづけているそうです。夫婦といえど、自分が求めていないことを要求されるのは、苦痛以外のなにものでもないことですネ。
通院している未婚の女性のなかに、せっくすの経験が無い患者がいます。いろいろな自覚症状をかかえ込んでいて、その症状が、ただ肉体的なものばかりではなく、心の問題もあるのですが、からだはせっくす適齢期なのに、それが無い、本人も恋人がいる訳でもなし、結婚したいという気もちもない、からだの機能、女としての生理がない訳でもない。毎月あるようです。臨床的改善がなされているにもかかわらづ、もう一息突破できないもどかしさを感ずるわけなのです。この女性がせっくすの歓びを知ったら一気に改善されるんだがなァーと思うことがあります。愛と生のなかでのせっくすが一番の妙薬なのですが、性、そのせっくすカウンセラーが必要なのかもしれません。

ある本を読んでいました。ヨーロッパの国の事情をエッセイに書いたものです。ヨーロッパ人と言っても、ヨーロッパの国にはさまざまな国の人達や宗教が混沌としている訳で、まァ、大変といえば大変な事情があるようです。その一節のなかに、結婚、離婚、そして再婚をくりかえす女の話がのっていました。結婚、再婚をくり返すたびに、その男性の子供が生まれています。その子供(女の子)も成長していく訳ですが、その娘も15、6歳になり、母親のその生き方を冷ややかな目で見ているのです。そんな母親をみて「ママは男を変えても同じ微笑みをくり返している」つまり、男をとっかえひっかえしても、何も変わっていないということなのです。なぜ結婚に失敗したのか、また何故再び結婚する自分があるのか、わかっていない、ということです。相手に変化を求めるが、自分は全く変わりもしなければ人生の学習もしていない、ということですネ。何回結婚しても落ち着くことなく、また離婚してそのうち老いていく。自分が再婚をくり返すなかで、変わっていかないと、ふしだらな生と性にうずもれてしまう。

近年、同情結婚がはやっているらしい。これは欺瞞的な愛と生のようである。同情が愛なのか。
以前は友情結婚がはやったらしい、友達感覚をそのまま夫婦の形にしてしまっている。マァ、よりどりみどりである。
小生、学生の頃、くそまじめで退屈な授業を放棄して、北海道小樽の朝里温泉整形外科で入院患者の物療(リハビリ)のお手伝いを数ヶ月続けていた。若いのに気の毒だなァという気もちが、いつしか同情になる。ただ、機械的に無機質な作業を毎日くり返している訳でもなく、言葉を交わし、情を交わしている訳ですネ。そこに特殊な得体の知れぬ感情がわいてくるのです。それが、相手を理解していくうちに、好きなのかなという感情がわいてきて、ハンディーをかかえているいないに関わらず、それが、好きという私の好意感情なのか・・・・。「同情と愛をとりちがえてはいけないよ」と言われたことがある。ハンディーを乗りこえて育てていく愛と生が自分の中にないと、その愛はこわれやすい。たやすく混同してはならぬのだ。混同してしまうといえば、若さとはほとばしるせい欲があり、意中の異性がいれば、なにが生でなにがせっくすなのか、わからない自分にさいなまれる。このオレの、女性にむける愛は、オレのせい欲のはけ口になるのか、いやそうじゃない、愛しているんだ、どっちの生(愛)でどっちの性(せっくす)なのか、精神的に葛藤する生と性がある。プラトニックの生があり、性欲の性があり、本当に悩ましいのである。ただし、その生も性も、本人にとっては生か死か、命がけなのだ。この生も性も正論で正しいのだ。ただ相手あってのことで、コントロールが必要(自我自制、ブレーキとアクセル)むやみにつっぱしればいいというものじゃない、相手を傷つけ、相手の人生を狂わすこともある。

ところで皆さんは、60を過ぎた私のせい(せっくす)が知りたいのでしょう。子供づくりのせっくすは卒業し、人生の営みの一部、人生のうるおいの中にある「せっくす」であって、実際にまだそのせっくすも可能である。十分機能もする。パートナーを口説くにも、性欲のための口説きにはならない。互いの人生を認めあうような癒しのせっくすでしょう。ゆとりの中での交わりという境地でしょうか。いくら心が若い、肉体が若いといっても、老いていくわけですから。

何か書き残していることを思い出しました。今、若い人達のあいだで「めんどくさい」という言葉を耳にします。めんどくさいということは、つまり己の人生に反応できないことで、その営みにある性にも反応できない、つまり無気力な姿を写し出しているのです。めんどくさい、という感情があれば、何をやってもこれまーでよ、です。おしまいです。人生においてもめんどくさい、生きるってこともめんどくさい、せっくすもめんどくさい、パートナーを思いやる、それもめんどくさい。靴下を脱ぐのもめんどくさい、パンツを脱ぐのもめんどくさい。まさかパンツはいていたすことはできません。脱ぐ前にはかなきゃならないことを考えただけでもめんどくさいじゃ、何もないじゃないですか。そのうち一緒にいるのもめんどくさくなりますネ。かといってひとりぽっちでは寂しすぎる人生ですネ。頭のなかだけのことであれば、いくらでも女性をハダカにして、いくらでもワイセツなこともできる。
まァ、骨になるまで考えることがないってことかな。ではこの辺でおわりにしますか。バイバイ。

私のブログの後は、三浦が担当します。本人が言い出したことで、その顛末はいかに・・・です。私の知ったことじゃねェと突き放すこともできずですが、まだまだ未熟者(人生経験がゆたかじゃない)ですから。ただ本人は真剣に向かい合っているようですから、ゲキを飛ばして下されば幸いです。