東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

時空と瞑想(3日目)

昨日の続き
瞑想によって真理を探究しようとする人がいるが、そんなことはできっこない。真理は捜し求められ得ないものだからだ。我々に探究できるのは、もはやすでに知っているものだけに限られるのである。探求するというのは欲するということであり、未だ知り得ないものは探求などできようはずがない。探求しようとする衝動そのものが、すでに何かを味わい、何かを知った後に湧き起こるものであるからだ。真理というのは探求することはできないが、見いだすことならできるのである。
探求するということは、時間の中で求めるという意味であり、深い意味で延期するということなのだ。何故なら、探求は必ず未来の中にあって決して現在の中にはないからである。たった今この瞬間に探求しようと思っても、探求などできるはずがないし、そんな余地もない。本当のことを言うと、探求心そのものが「時間」というものを創り出しているのだ。探求するためにはどうしても時間が必要であり、その時間を創り出すことによってはじめて探求することができるのである。だから東洋思想の探究者たちは、「輪廻転生」という概念を生みださなければならなかった。「魂」の絶対の解放にはもっともっと時間が必要だ! 一生ではとても足りない。何生もの生が必要になってくる。そのように何生もの生があってはじめて、時間の広がりと、時間のつくり出すその空間のなかで我々は動くことができるのである。時間というのは実を言うと欲望の副産物であり、欲すれば欲するほど、ますますもって時間が必要になる。だから東洋では生につぐ生、永遠に終わることのない時間を考えつくことになったのである。
一方、西洋的な思想では時間に対してより意識的になって限られた時間の範囲内で合理主義精神のもと、たくさんのことをやらなければならない。人生は一回きりのものであり、来生なんかありえない。今生がすべてなのであるから多くのことを、あらゆることをしなければならなくなる。割り当てられた時間という期限内で、たくさんの欲望をうまくさばかなければならない。こういったことから西洋では強く時間を意識することになった。この「時間意識」というのは西洋的精神の最も共通する面のひとつだと言える。
我々が欲望するときには必ず時間を創り出しており、その時間とは空間の第四の次元であり、また時間とは一種の空間でもある。時間がなければ欲望は身動きできない。それゆえ、どんな欲望も時間や未来を創り出すのである。そうなったら、現在の時間を後回しにできる。しかし、現在の時間というのは実のところ時間などではなく「実存」である。時間とは保留できないもの、さえぎることのできないもの、後戻りさせることのできないものだ。そして究極的には、時間の過程そのものが「死」だ。時間を失うがゆえに、我々は死んでゆく。いつかある日、もうどんな時間も残されていない空っぽの自己になる瞬間がやってくる。生命砂時計の砂はすべて下に落ちてしまった。そうして我々は確実に「死」を迎える。
操体も時間、空間を超えた実存の次元である。快適感覚は時間に依存しない空間において感じることができる。「永遠なる時間」にも、「限定された時間」にも拠りどころとはしない。何故なら「からだの無意識」に依存しているからだ。
明日に続く



東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。