東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

時空と瞑想(5日目)

昨日の続き
瞑想のなかで退屈を感じて、ずっと坐り続けているのは快い空間だ。この退屈には一定の様式がある。我が国における禅の伝統では、禅寺において退屈の決まった様式がある。それは坐して、料理して、食べるということである。そして坐禅を組み瞑想をする。ところがその伝統的な瞑想に参加するビジネス研修の参加者には退屈の意図するものが伝わっていない。企業が企てた社員研修禅なるものは厳格さという軍隊的な味わい方に変わるか、単純さの美学的な味わい方になるかして、決して退屈にはならないのである。本来、日本人にとっての禅というのは日常的な生活状況であって、その中で日常の仕事をし、坐禅を組むのである。
禅の様式は、どう自分の鉢を使い、坐禅の姿勢のままどう意識的に食うか。これはただの退屈の感覚をつくるためにあるはずなのに、ビジネス研修禅では細部まで楽しんでしまう。これでは一つの芸術作品にすらなってしまうのだ。鉢をきれいにし、洗い流して、白手拭いをたたむような行ないはすべて劇場と化すわけである。禅が考古学的、社会学的に興味深いということの調査に変わってしまうのだ。そして知人に吹聴する話になってしまう。「昨年の秋から冬にかけて禅寺で過ごした。秋から冬景色に変わってゆくのも見たし、坐禅もした。すべては正確で美しかった。どう坐るかを学び、どう歩き、どう食べるかまで学んだ。素晴らしい体験だった。まったくもって退屈なんかしなかったよ 」と、こういうことになるのだ。このようにしてまたしても自己存在証明を集めることになる。
禅のなかには退屈という空間があるが、時間は進むことなく止まったままだ。退屈というのはさまざまな面がある。何も起こらないという感覚があり、何かが起こるかも知れないという感覚もあり、起こって欲しいと思うことが起きていないことにとって代わるかも知れないという感覚さえある。あるいは退屈を喜びとして味わう人もいるかも知れない。退屈が快いのは、何もなす必要もなく、期待することもないからである。だが、退屈を何かに変えようとするつまらない努力を超えて進むためには、ある意味での戒律がなければならない。それが呼吸なのだ。単純に呼吸とかかわることはひどく単調で非冒険的である。第三の眼が開くこともなく、チャクラが開かれることもない。まるで砂漠に石仏が坐っているようにも思える。何も一切起こらない。しかし何も起こらないことが明白になるにつれ、奇妙なことに何か荘厳なことが起こりつつあるのがわかってくる。軽薄さが入る空間も焦燥感の空間もない。そこには何か満たされた健全なものがある。この健全さは空間が事物を含むこと、事物は空間に何も要求せず、また空間も事物に何も要求しない、それは相互的で開かれた状況なのである。
操体法には「頭で考えないで」というのがある。この「頭」こそ、退屈にならなければならないのだ。そして瞑想と同じように戒律が必要になる。それがからだの感覚をききわけるということ。
明日に続く



東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。