東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

シベリア抑留と橋本敬三師 その2

昨日は「シベリア抑留」に関して島根県邑南町在住、品川始氏の著書より抜粋して、抑留時の日常的生活を一部紹介致しました。
そして最終日の今日は本題にもなっている橋本敬三の著書『生体の歪みを正す-橋本敬三 論想集-』の中の『ロスケ・ヤポンスケ(ソ連抑留記)』から橋本敬三ソ連抑留数年間の中で、どの様な抑留生活をしていたのかを読み解いて行きたいと思います。
先ず橋本師の論想集の中にある抑留記の内容と、昨日紹介した品川氏の抑留記内容が同じ抑留記にもかかわらず、トーンの違いに最初は戸惑いました。多分に両氏の性格的違いが影響しているのかと思いましたが、品川氏の著書にその理由を見つけることが出来ました。それは、抑留された人々は手に職が有るか無いかで、最初に振り分けられるのだそうです。技術者、調理人、経理などの専門職等々、そして何も技術が無く、体格のいい若い人達はマイナス四十度にもなるという極寒の過酷な労働環境で外仕事に回されるのだそうです。
そして、その中でも特に優遇されたのが、軍医(医師)だったようです。これは多分にソ連側の事情であった様な気がします。捕虜の健康管理と言うよりは、ソ連側の将校を含めた自分たちの健康管理のために、医師を必要としていた様な気がします。ですから、そういう意味では橋本師はソ連側から厚遇されていたと思われます。それが分かる記述として、論想集の中で、橋本師が収容所に連れて行かれた時に、兵隊達とは違う部屋に通され、新聞紙をちぎった様な紙片の上に、パラパラとオガ屑みたいな物を摘み出し、押してよこした。よく見ると茶褐色のオガ屑の中に緑色のツルツルした細片が少し入っている。と有ります。これはマホルカというタバコの一種で、タバコの茎を小さく刻んだ物で、良質な物は緑色が残って見た目にも美しく、吸ってもとても良い香りがしたようです。悪い品は茶色っぽく一見、オガ屑同じに見えて、吸っても辛く、香りも無かったそうです。橋本師が部屋に通され、マホルカの緑色の茎が入ったタバコを出されたことでも、ソ連側からVIP待遇で扱われているのが分かる記述です。部屋に通された時の相手の少尉位の奴(橋本師記)が自分はマーリンキ・ドクター(マーリンキはロシア語で小さいの意味になるので、小さい医者、つまりは未熟な医者だと)だと言っていることでも、橋本師がかなり頼りにされていたことが分かります。

ソ連での橋本師の治療に関しては操体を使用した治療であったのが文章からは理解出来ます。収容所の所長の奥方が体中が痛いと言ってオイオイ泣いている時も、身体の歪みを直して急所に数カ所、鍼を打ってやった。アラ不思議や、今までの痛苦がケロリと消えた。とあります。
それ以来、所長の信頼が絶対になり、どんなに転属命令が来ても、あの手この手を使って、手元から離さず、三年間その収容所にいたそうです。
この理由の一つはソ連という国家の問題だと思います。基本、社会主義国「物を作り出す人」が素晴らしいと言われ、医者などサービス業的な職業は社会的地位も低く見られていたようです。キツイ仕事の割に、見返りも少ないということで、旦那さんにある程度の収入が見込める、既婚者の女性医師が多かったようです(現在でも女性医師多し)。
橋本師の論想集に出て来るソ連側の医師も、女性が出て来ます。その様な国側の事情もあり、橋本師は優遇された面もあったようです。

ソ連将校の治療以外には当然のことながら、収容所内の捕虜達の治療を行っていたようです。治療内容も多岐にわたり、患者の殆どが栄養失調による症状だった様で、皮膚に赤い小斑点が出現し、一週間の内に増えて大きくなるという「壊血病」がかなり蔓延した様で、野菜の配給が無いのでVCの補給が出来ず、苦労したとありました。この時に橋本師が行ったのが松の枝を折り、松葉を集めてきて生葉を兵隊に毎食二、三十本ずつ噛んで汁を呑ませたそうです。
この話には後日談があり、日本へ帰還して十年以上経ってから橋本師を尋ねてこられた抑留時の兵隊の方が、仲間内で橋本師のあだ名が『松葉軍医』だったと告白されたそうです。

この橋本師の抑留記と昨日の品川氏の抑留記は共通する項目が多く、当時の収容所の様子が、場所は違っても同じだったんだと妙に納得しました。その中でお二人が共通して書かれていたのが、日本人という民族の素晴らしさでした。数千人の捕虜がいると、殆どの物が作れるというのです。馬車馬の蹄鉄を作れと言われれば、蹄鉄工が探し出され作る。鍛冶屋の大将は廃車の残骸から包丁、カンナ、ノミ、ハサミ、床屋の道具からノコギリまで作ったと記述があります。食事の面でも品川氏の抑留記の中に、塩スープばかりで、味噌汁が飲みたいと皆が思っても、米や大豆があっても味噌麹菌が無ければ味噌は出来ません。そんな麹菌など有る訳無いと思っていたのに、持っていた兵隊が一人だけいて、味噌の香りのする味噌汁を戴くことが出来たそうです。千人もの人が集まると、色々な考えや技を持っている人が居るものだと、感心され、日本人は器用な民族だと改めて思ったそうです。

橋本師の具体的な治療内容が見られる記述もあり、落盤で左大腿骨頭全脱臼したのにクロール・エチルをかけて、屈曲外旋させたら、ポキンと入ったこともある。と書かれています。後、衛生下士官達に鍼を教えて、治療に使わせたそうです。鍼も衛生兵の中に電話線を拾ってきて、細い銅線の束の中に一本入っている鋼線を抜いて、適当に切って、細く磨いて銅線を竜頭に巻いて、立派な直径0.1ミリ位の一番鍼を作り上げた衛生兵が居たそうです。

品川氏の抑留記にあったのが、神経痛腰痛は収容所では病気、病人としては認めてくれず、痛い足、腰を引きずりながらでも、作業に出されていたようです。目に見えない神経痛や腰痛は『横着病』だと言われていたとのこと。
にわかマッサージ師やお灸の先生が登場し、施術する代わりにタバコやパンをせしめていたとのこと。
そう考えると、橋本師が居た収容所では衛生兵は元より、縁あって橋本師に診てもらった末端の兵隊達に、般若身経などを教えていたとしても不思議では無いと思える。現実、将校や兵隊に対して操体での施術を行っていたので、聞かれれば橋本師の性格として、『こうやんだょ』などと言いつつ、指導されていたとしても何ら不思議では無いと思われます。その頃、操体が橋本師の中でどの程度、体系化されていたのかは不明ですが、過酷な労働下での自力自療は効果的だったと思われます。
橋本師がロスケに施術をされる中で、民族は違えど、ヤポンスケと同じ効果があるんだ、操体は万国共通だ!と確信したかしなかったのかは定かではありませんが、間違い無いのは、自らがやってこられたことへの確信と、揺るがない自信だったと思います。

私も以前の仕事の関係で、10年以上前にロシア領サハリン(旧樺太に行ったことがあります。夏なのに海に足を付けるだけで「ガクガク。。ブルブル」全身に鳥肌がたったのを覚えています。町の中心部ユジノサハリンスクにある建物や道路といったインフラ設備の殆どが、旧日本軍が作ったものをそのまま使い、道路の真ん中に大きな穴が開いており、夜は危ないからスピードを出せないと言われたのが印象に残っています。そんな中でも、一番印象に深く残っているのが、とにかく街を歩いている若い女性が皆モデル並みにキレイだったということでしょうか。しかし一方で、キレイなおばさま達を殆ど見かけなかったということは、三十五歳位までが、我が世の春ということだと気付きました・・・

これ又話が汚れそうなので元に戻しますが、橋本師がソ連で数年間に渉って抑留を経験されたことが、逆に『日本は宝島だ』と思われるに至った心境ではなかったかとも思いました。世界に誇れる文化や、何よりもどの様な状況にあっても何かを作り出せる、人こそが財産であると確信されたと思います。
この日本生まれの操体が今年も海を渡り、遠くスペインの地で操体の種を蒔いて帰ります。今年も又、師匠お二人と共にスペインに行けることを、最高に楽しみにしています。来年は何処で種を蒔くのか今から楽しみです。
今週一週間お付き合い戴き、本当に有難う御座いました。明日から我らが師匠三浦先生の登場です。


東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。