東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

京都フォーラム当日

昨年はこのホテルに二泊したのだが、二日ともイノダコーヒー本店で朝食をとった。今年もそうしようと歩いていったが、7時少し過ぎなのに長蛇の列。イノダコーヒーは諦めて、スタバに移動した。

★折角行ったのに入れなくて残念

その後、チェックアウトしていよいよ大徳寺へ向かう。

発表者プロフィール


★会場の様子。後ろの襖絵は重要文化財なのだ

パソコンとプロジェクタをセットし、参加者が続々と集まり「2011年東京操体フォーラム in 京都」が始まった。テーマは「愛と生 Love & Life」

毎度の事ながら福田理事が総合司会をつとめ、岡村理事(実行委員長)の開会の挨拶と進み、最初のセミナーは、奈良漢方治療研究所(奈良操体の会)の北村翰男先生による、『生きている“からだ(いのち)”と生かしめる“こころ(わたし)”』北村先生は「無の操体」という概念を説いておられる。私は最初この概念が今ひとつ理解できなかったのだが、ある時気がついた。北村先生は、一般の方が生活に活かす操体を指導しておられる。東京操体フォーラムは、臨床家の育成、臨床家を育成できる指導者の養成が目的である。その辺りが少し違うところだ。
私達は「快」「楽」「不快」という3つの感覚で考えている。ボディに歪みがあると、「快」か「不快」を感ずる。これが「快不快の法則」の成立である。一方「楽」は「ニュートラルで楽で何とも無い」という状態を示す。
楽でニュートラルなところに「快」を問いかけてもきもちよさがききわけられるはずがない。
現在「きもちよさを探して」という指導をしている先生方は「楽」に対してきもちよさを問いかけているので、患者は「何ともないじゃん」という感想を持つ。そこでこまった先生方は「きもちよさを探してぇ」と言ってしまうである。

北村先生は「不快以外は全部快」という捉え方をされているのではないかと思う。その『快』の中に「楽で何とも無い『無』」が存在しているのではなかろうか。つまり「無」というのは「楽で何とも無い」ということではないのだろうか。

北村先生の講義は「痛みから逃げる」「気がついたらちょこちょこ動かして調整する」という指導がメインである。
今回も昨年に引き続き「操体前」と「操体後」に、本人の自覚症状の変化を書き込むチャート図を配布して下さったが、本人に「どれくらい変化があったのか」を実感させるのは重要なことであり、多いに参考にしたいところだ。


★北村翰男先生の講義

その次は「きもちよさ体験」。
参加者の方々に「足趾の操法」(一般社団法人日本操体指導者協会商標登録済み)を体験していただくのが目的である。橋本敬三先生が、足操術の先生から習ったものをアレンジしたのが3つ(揺らす、落とす、揉む)、それに三浦先生が5つのバリエーションを加え、それまでなかった「納め(おさめ)」を導入した。この「納め」によって、質の高い快感度を提供できるようになったのである。それに加え、私が20年近く研究している「趾廻し」(あしゆびまわし)を入れたものだ。
「ユビモミは他力だ」という時代もあったようだが、現在では「快適感覚をききわけ(診断)、味わう(治療)」というスタンスで操体臨床をすすめているので、他力(というか手伝い)で、本人にしかわからないきもちよさをききわけていただき、味わっていただく、つまり自力自療であると考えている。また、足の趾は手や他の関節と違って一本一本動かすことが難しいという理由もある。寝たきりである、動くのが辛いとか、幼児や小児、言葉の通じない外国の方などにも、十分なきもちよさを提供できる(昨年スペインで実演。大きな反響があった)。また「きもちよさでよくなる」という橋本敬三先生の言葉を実感できるものでもある。
参加している実行委員が全員操者役となり、参加者に対して足趾の操法を行った(当然私も操者をやっていたので写真はない)。途中から気持ちよさそうなイビキや『あ〜、きもちいい』という呟きが聞こえてきた。

なお、終わってから見よう見まねで足趾の操法を真似している参加者がいた。足趾の操法はおおよそ60時間の講習で修得する。勿論、厳密な「作法」があり、操者のポジショニング、重心移動などを守ってやるのである。「操体法」が様々なスタイル(ヘンなものもある)で広まったのも、このように「見よう見まね」で広まっていったからなのかもしれない。
冷たいようだが、見よう見まねで覚えた「テクニック」で、人様からお金を頂戴する、あるいは臨床を成功させるというのは虫が良すぎる。取得したメンバーは、60時間以上の講習を受けているのだから、お金を頂けて当然なのだ。

昼食は、玉林院さん出入りの仕出屋の美味しいお弁当をいただいた。一つひとつが丁寧で上品な味で、なかなか東京ではお目にかかれないようなものだった。

午後は日下実行委員の『意識と呼吸から見た『自己診断としての動診』。


★日下和夫実行委員。

日下氏は若い頃インドでヨーガの修業をしていた。呼吸に関しては実行委員の中で一番詳しいのではないかと思う。意識と呼吸は密接に繋がっている。今の世『原始感覚』が鈍っている人が多いが、呼吸と意識の用い方によって、原始感覚を鋭敏にすることができるのではないかと思った。操体の基本は自然呼吸だが、意図的に「操者が行う呼吸」もある。
私達操体指導者が一番苦労するのは「動きの指導」である。動ける人はまだマトモで、症状疾患を抱えた人達はどう動いていいかわからない。
「本には『きもちよく動け』と書いてあるけど、痛いんだからきもちよくなんか動けないし、動けばわかると言われてもわからない」というのが多くのクライアントの悩みである。『動ける人』のように、ある程度健康な方を診ているのだったら「きもちよく動け」でも「ちょこちょこ動いて感覚をチェックしろ」と言えるのだが、いかんせん「感覚」をキャッチする『原始感覚』が鈍っている方々が多いのが今日この頃の現状である。
その問題をふまえ、日下実行委員は「動きの意識づけ」「目線をつける」「呼気で動きはじめる」「感覚をききわける」「動きの表現」と、順を追って説明してくれた。いきなり『動け』というのは操者の配慮のなさである。健康体操指導や、元気な方だったらこれでもいいと思うが、操体の臨床を受けたい方々は、何らかの症状疾患を抱えて来られるのである。
思うに『自分が動けちゃう』人は、いきなり「動きの表現」に行ってしまう。殆どの方は動き方が分からない。無理矢理分からせるとすれば、最大圧痛点を押すかどうにかして、逃避反応を起こさせるしかない。これはこれで操体の原点でもあるかもしれないが、被験者にあまり痛い思いはさせたくない。

操体における「呼吸」はこれからますます注目度が高くなると思う。呼吸は皮膚に続く「お宝の山」になることは間違いないだろう。日下実行委員には、これからも呼吸の研究を深めていただきたいと思う。

次はいよいよ「現代の巫女」こと、さがゆきさんによる、パフォーマンス。私は何度か彼女のライブを見たことがあるし、昨日の出雲大社での「即興」を目の当たりにしている。最初に「完全即興とは何か」という話から始まり、話の区切りがついた時何かが「降りて」きた。「素」の彼女は明るくて楽しい人なのだが、一瞬にして変わるのである。落語を寄席に見に行った事がある人なら経験があるだろう。テレビでやっているような落語は「マクラ」が抜けている。本来落語は「マクラ」「本編」「オチ」で構成されているのだが、放送されているようなものは、「マクラ」を飛ばしていきなり本編から入るものが多い。私が初めて生で寄席に行った時、「マクラ」から「本編」に移る時のタイミングに度肝を抜かれた。丁度マクラから本編へ移るような時のように、突然「降りてくる」のである。

★さがゆきさん。この後「降りてくる」

歌詞があるわけでもない、決まったメロディがあるわけではない。まるで皮膚で聞いているような感じがした。本堂に響き渡る声に、一同は引き込まれた。さがさんの即興(インプロ)は、是非生で聞いていただくことをお勧めする。

最後は三浦寛理事長による「第2分析の体系化」。昨年に引き続いての講義である。最初に橋本先生の話から始まった。参加者の中には、橋本敬三先生の「生体の歪みを正す」を読んだことがない、という方々が結構おられたが、操体を勉強するのだったら是非読んで欲しい。
からだの動きは全部で8つある。対なる二つの動きを「楽か辛いか」で、比較対照すると、4つの動診が考えられる。首だったら、前屈と後屈、右傾倒と左傾倒、右捻転と左捻転、牽引と圧迫の4とおりの動診が考えられる。これが第1分析である。原則として「きもちよさ」ではなく「らくかつらいか」で分析する。

第2分析は、一つ一つの動きに快適感覚の有無を問いかけるので、全部で8つの動診ができる。前屈、後屈、共に快適感覚がききわけられる場合もあるからだ。
第2分析を体系化された図表があるが、昨年からよりよく改良され、一層理解しやすくなっていた。


三浦寛理事長


★左から三浦理事長、北村先生、廣畑先生、秋のフォーラムで講義予定の川崎隆章氏

その後、質疑応答、記念撮影、9月のマドリッドでの操体フォーラムの案内、11月6日の秋季フォーラムの告知を経て、2011年東京操体フォーラム in 京都は無事終了した。

お楽しみはこれからだ。