東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

魂の快と肉体の快

今日は折り返しの四日目です。よろしくお願いします。
三浦理事長著者の「快からのメッセージ」(たにぐち書店)P248より抜粋しますが、「操体では肉体の死を死としてとらえていないのです。帰一の法則としてとらえているのです。帰一とは、命あるものは無条件の愛から生まれ、そして、その神性に帰って行くことなのです。ヒトは一番気持ちがいいところから生まれ、そして、一番気持ちがいいところに帰っていくのです。これが帰一の法則です。」

快からのメッセージ―哲学する操体

快からのメッセージ―哲学する操体

からだの肉体がなくると、魂は常に気持ちがいい状態にあるということは、感覚の聞き分けの必要性がないということではないでしょうか。感覚を聞き分けるからだの肉体がないというだけでなく、自我の境界がないのかなと思いました。だが、僕達のからだはこの世界で、肉体をいただいて生を受けています。肉体がある以上、肉体を無視して魂・意識の望む快だけを求めていては、肉体はボロボロになってしまうのではないかと考え、肉体からの快と、魂からの快を考えてみようと思いました。
肉体を無視した魂だけの快で考えてみると、肉体な楽な状態でどんな快楽・快でも満足してしまうと、快楽に溺れるということが起こるのではないでしょうか。また、からだ・肉体の動きの法則に関係なく、意識を研ぎ澄ますと魂の快を感じれてしまう方もいるのではないかと思います。魂で感じる快だとしても、肉体への治癒能力の効果の有無は、快の質で変わってしまうのではないかと考えます。ということは、魂だけで考えると、快の性質の種類が多く、どの快の質が治癒能力に繋がる快なのか、魂からでは肉体の求めている快の性質が分からず、いわゆる天才にしか治癒能力に繋がる快に直結できないのではないでしょうか。
肉体からの快を考えると、からだの肉体には感覚受容器が存在するおかげで、快の質や有無をからだにききわけ、味わいたいという要求感覚にしたがって、十分に快を味わうことで、治癒能力に繋がる快である肉体も魂もからだが喜ぶ快の選択が可能となるのではないかと思います。これこそ、この世に存在し生かされる肉体・魂・イノチの感覚を利用した生命感覚といえるのではないかと考えました。
操体法では、身体運動の法則に基づいたひとつひとつの動きに対して、きもちよさの有無、味わいたい要求感覚の有無をからだに聞き分ける動診(診断)と、聞き分けた質の高い快を十分に味わう操法(治療)の過程があります。これは、肉体で快を選択して、肉体と魂の両方が喜ぶ快の味わう結果、無意識の動きと繋がるのではないでしょうか。だからこそ、からだの治癒に繋がる快は、魂から肉体への快ではなく、肉体から魂への快という流れになると考えました。
実際に自分で快を探す動きをしてみると、魂・意識の縛りや決め付けによって肉体が窮屈な感じを受けました。身体運動の法則に準じた動きから感覚を聞き分け、十分に気持ちよさを味わっていると、肉体も魂・意識が自我境界のないなんとも自由な感じを受けました。
からだに肉体と魂・意識が存在しているならば、肉体と魂の両方が喜ぶことを考える必要があり、操体の学びはこの世にある生命現象の全てが含まれているから奥深い学びといえると思います。
ありがとうございました。

Sotai Forum in Madridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。