東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

楽と快の違い(最終日)

私のレーベンス・テーマ(生涯のテーマ)は、「楽と快の違い」の啓蒙です。これに大きく関連してくるのが、第1分析と第2分析の違い、動診と操法の違いです。

以前面白い受講生がいました。元物理の先生なのですが、ある転機で先生を辞め、海外シニア協力隊に参加していたそうです。彼の希望は「苦しまないで死ねる方法が知りたい」とのことでした。講習を続けるうちに彼は「きもちよさというものがわからない」と言うようになりました「足趾の操法」をやっている最中、あるいは「渦状波」を受けている最中は誰が見てもきもちよさそうでした。からだが無意識に快に反応していることもありましたが、終わって帰る頃になると「やっぱりきもちよさはわからない」と言うのです。たまに男性で「キモチイイなんて言ったらオレの負けだ」「オトコらしくない」とか(男女の営みでどちらか先にイッたら負け!みたいな感じでしょうか。は)、そんな方がいらっしゃいますが、何だかそんな感じでもありました。
師匠は「セックスではキモチイイというクセに(笑)絶対『楽』とは言わないはずだ(笑)」と言っておられましたが、私も「そうだなぁ」と思いました。
そうですよ。男女にこだわりませんが、愛の営みの最中に「あ〜!楽だっ!」とか言わないではありませんか(笑)。言いますか(爆)。
私がもしも殿方で、お相手しているオナゴが
「あ〜、楽だ!」とか「あ〜、楽になった!」
と反応したら、それはショックだと思います(笑)。
これは何故でしょう。それは「楽」じゃなくて「快」だからではないでしょうか。
★この件に関しては、通常の「性的な快(動的なもの)」ともう一つ「性的な快(静的なもの)」があると言われていますが、それはまたの機会ということで。

初日に書きましたが「楽」と「楽しい」は違います。
以下ははづき虹映氏のメルマガ「すぴナビ通信」からの引用です(328,329号)。はづき氏は橋本敬三先生が書かれていること(言葉の統制、救いと報い)を、現代的に(女子に特化している気もしますが)わかりやすく説明しています。

『 極楽 』 
「極楽」とは、あの世のことではありません。楽しさを極めると、ただ今、そこが「極楽」になります。
「極楽」とは、読んで字のごとく、「楽しさを極める」ことです。 トコトンまで楽しさを追求すると、その時その場所が「極楽」になります。決して、あの世に行くことや、酒池肉林の快楽の世界に溺れることが、「極楽」なのではありません。

「楽」と「楽しい」は、似て非なるものです。「楽」をすることを「楽しい」と勘違いしてしまうと、どんどん「楽」な方に流されていくのが、自分でもわかるハズです。

一方、「楽しい」ことを選び続けていると、 時には辛いことも苦しいことはあるかもしれませんが、自らの意志で流れに乗っていることがわかるようになるハズです。勝手に「流されている」のか、それとも自ら積極的に「流れに乗っている」のかが、「楽」と「楽しい」の違いです。

自らを監獄に閉じ込めてしまうことを「地獄」と呼びます。

「楽」な方に流されていく先のことを、 人は「地獄」と呼び、「楽しい」方向の流れに乗っていく先のことを、人は「極楽」と呼ぶのでしょう。

「迷ったら、迷わず楽しい道へ行け」という言葉があります。迷ったら、立ち止まって、どちらの道を選択すれば、自分が心の底から楽しくなるのかを考えてみましょう。周りが喜ぶ方ではありません。もちろん楽な方でも、得する方向でもありません。自分の中の「楽しさ」を基準にして、それを選択し続けていくと、その先には「極楽」が待っているのです。

また、これは「快」を体験するとよくわかるのですが、「楽」ではなく「からだは、快に反応する」のです。

島地勝彦氏は著書の中で「知る悲しみ」と言っています。シングルモルトでもシガーでも、いいものを知ってしまうと、ランクを下げられなくなるのです。これは「楽」と「快」でも同じです。
またまた卑近な例で申し訳ないですが、愛の営みがひとりよがりで自分だけ良けりゃいいというお粗末(すいません)というお相手から、思いやりと愛情に満ち、からだも心も満たしてくれるお相手に巡り会ってしまったら(笑)。
これ、結構「楽」と「快」の違いの理解にも繋がってきます。

「楽」と「快」の違いがわからない、ということは、まだ知らないのです。その先の世界を。

というわけで一週間ありがとうございました。フォーラムも近くなってきました。皆様にお目にかかれることを楽しみにしています

畠山裕美

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。