東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

快は元々。・・・その2。

おはようございます。
昨日は原子核が意志と意識を持ち、快によって調和が成されるというバランス現象の上にすべてのものが成り立っているということを自分なりに書かせていただきました。
今日はその続きです。

快は元々であり、より良くなろうとする意識には太極の意志の道を踏み外さない為の、不快というサインも生じるが、不快に従ってしまえば個性の意志も崩れてしまう。意志を保ち個性を尊重しながら、快の方向性をききわけ、そこに調和することで新たな道が開ける。その様な過程を経ながら、時間・空間の環境の中で機が熟してくれば、不快という警告はなくなり、快によって新たに調和が成されてくる。そうやって、それぞれの原子は分子となり、分子は細胞になるという様に調和を密に高めながら質の転換が図られていくのだと思います。だから、いきなり出来ないことを「頑張って」やってやろうとするのではなく、「欲張らず」「縛らず」「威張らず」に意志を継続し、出来る事からコツコツと、というのが正しい道筋だ、という事を原子や原子核は教えてくれているのだと思います。
このような原子、原子核の意志と意識が意識感覚として引き継がれ、人間の意識となり、心を形成していきます。しかし、心はこの様なタテ軸から成り立つだけでなく、心(自我)の意識は横軸の人為的、社会的環境からも情報を取り込み、より良く生活を営もうとします。これがタテ軸と調和できていれば良いのですが、心はうつろいやすく、タテ軸にはない「頑張る」「欲張る」「縛る」「威張る」などの思考を生み出しやすい。「楽」というのも、この心(自我)の意識レベルにある。だから、「楽」は格別の精神の崇高さを備えた人ならばタテ軸の快と交叉するものもあるかもしれないが、不快と手を組み、太極から引き継がれている意志に逆らい、からだを構成している細胞や原子核を悲しませてしまうものが多く、その人の心の持ち方、心の意識レベルで多種多様となってしまう。だから、「快」は元々であり「ききわける」とか「感じる」ものだが、「楽」は心の持ち方次第で変化する価値観の一つと言えるのではないでしょうか。
「楽」と「快」では元々が違うという事を書かせていただきましたが、書いていて心の営みの重要性というのを改めて感じさせられています。いかに心の調和をはかっていくか、ということについて今回、原子から色々と考えていて、ひとつ気になったことがあります。それは(重水素などは別として)水素原子の原子核だけが、なぜ陽子一つのみで、中性子とは結びつかず単独で存在するのかということです。陽子は意志の波動を起源としていて、中性子は意識の波動を起源としている、という考え方から勝手に想像すると、水素原子に意識は無く、太極から受け継いだ愛の遺志をピュアに具現化しているものとなってきます。生命あるものにとって水は必須であり、細胞一つ一つが水を必要としています。これも太極の愛であり、道を踏み外さぬよう鑑となり、この世を破壊に導く者と化さぬよう見守らせているのではないでしょうか。だから水の結晶は呼いた言葉を映し出す鏡のような反応をするのかもしれません。水が澱むような言葉が心に浮かんでも、そのまま口に出さずに水が悦ぶような言葉に転換して意思の疎通がはかれるようにするというのも、心の調和ひいては様々な環境への調和に結びつくのではないでしょうか。これからの時代はそういった心の持ち方が問われてくると感じます。
原子核を無理やり分裂させる兵器を作り、戦争をするような時代は、「陽」の時代とともに終わったのです。そのエネルギーの利用の仕方も大きく問われてきている。世界人口が70億人に達し、ますます増えている今、エネルギー問題も、今のままでは深刻になると思います。しかし人類は不可能と思われる事を次々と可能にしていった。一昔前のプロペラ飛行機の時代は理論的に物体が音速を超えるのは無理だとされていた。それでも発想の質の転換をもって音速を超えるジェット機が発明された。光明もある。光より速い粒子も発見されているという。今まで科学の発展に貢献し、物質社会を豊かにしていった、(最高の頭脳と呼ばれた)人間による法則が覆されようとしている。時代は確実に変化してきている。今こそ太極の意志(愛とその法則)を感じ、そこから新たなる調和について学ぶ時なのではないでしょうか。


友松 誠、