東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ごちゃ混ぜにしない。

おはようございます。
朝から雨ですね。
今日はなんだか1がやたらと多い日です。2011年11月11日。漢字で書くと十一月十一日。十一をプラスとマイナスに見立てて電池の日になっているそうです。

電流は(+)から(−)に流れると定義されてきたが、電子は(−)から(+)に移動するという。目に見える世界と目に見えない本質の世界では、しばしば逆のことが起こっているのかもしれない。
ものごとには、色々な流れがあり、どこからどう流れているのか、その本質を知ろうとしなければならないことがある。


「救い」の世界から「報い」の世界へ。
救いを知らずして、報いの世界の価値観のみで、救いの世界を構築しようとしても、時間・空間の環境の中で次第に金銭欲や権力欲とむすびついたものが台頭してきてしまう。


「快」から「全て」へ。
快は無意識から生じ、全てのバランス現象の調和へと向かう。一つの快がいつまでも続くというのはおかしい。麻薬や覚醒剤による快はおかしいという事は誰でも知っている。自然界のバランス現象を無視して、一つの快に安住し、いつまでも貪ろうとすると「楽」とごちゃ混ぜになり「快楽」に溺れるということにもなってくる。快楽に溺れると、まず自然界の一員であるからだに変調をきたす。そして心を蝕んでいき、心とからだの不調和、からだそのものの不調和、自分と様々な環境との不調和を招いてしまう。程度の差こそあれ、性行為にも嗜好品にも言えることで、食の「享楽」にもつうじる。バランス現象を無視した「快」は有り得ない。それは「楽」と「快」のごちゃ混ぜなのだと思います。
「快適」という言葉も「快」に「適う」と書き、本来は快に適うことですが、氾濫する情報の中には快適という言葉を使って、商品を売り込もうと欲に訴えかけてくるものも多い。このあたりにも「楽」と「快」をごちゃ混ぜにしてしまう要因があるのだと思います。快は無意識のからだの領域から生じ、それが心にヒビキ、「快適感覚」として感じられますから、からだが満足すれば、それは快の記憶として残るでしょうが、それ以上の要求は無いはずなのです。「快適」とは、快に適うことですから、からだが満足すればその「快適感覚」も消失するものです。「快適」という言葉を使っていても、快の記憶と心の欲の部分に訴え、商品を売り込むのは、本来は「楽」に訴えているのだと思います。
 「快」からの流れには自然法則に順応した源流があり、それは全てのバランス現象の調和に向かっていると思います。その本質を学び、より良く人生を満喫するには、「楽」と「快」を識別する必要があると思います。
しかし、頭で難しく考えて、杓子定規になる必要はないと思います。元々は救われており、からだはきちんと識別しているのですから。
「間に合っていればいい」「間に合っていればいいという、心の豊かさが必要だ」「間に合うように出来ているのだ」と橋本敬三先生はよく言われていたと聞きます。


友松 誠。