東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

プロローグ楽と快

「楽と快の違いについて」このテーマは操体を追求しているものにとってはまさに最初にぶつかるファーストコンタクト案件です。今回のブログのテーマとして様々なアプローチから各実行委員が思いの丈をぶつけたので、簿学な私としてはこれ以上のことは書けないので、相変わらずの飛び道具的内容で一週間を乗り切りたいと思います・・・

現在、東京操体フォーラムにおいては「快」のききわけを診断の指針とし、臨床を行っている訳ですが、先週の畠山先生のブログにもあった様に、我々は「楽」が悪いと言っている訳では無く、言葉のニュアンス的問題であると考えます。
表現は違いますが、この「楽」に近い言葉が「癒やし」ではないかと思っています。と言いますのも私は元々、この業界に飛び込む切っ掛けになったのが、まさにこの「癒やし」を提供する側になりたかったからなのです。

多分、我々と同じ業界に居る方でも、最初は人を癒やしてあげたい!などとラブリーな理由が就業動機になり、現在に至っている方もいらっしゃると思います。ご多分に漏れず私も約10年前に最初は“整体施術院”として開業しました。開業動機は「人を癒やしてあげて尚且つ直接的に喜びを味わえる仕事」がしたい!と言う純粋な気持ちであり、理想を掲げる夢子ちゃん状態でした。

しかし残念ながら現実は理想と大きく違っていました。癒やしてあげたいと言う私の思いとは裏腹にクライアントは「何年も痛みが消えないんだけど!」とか「今すぐ痛みをとって!」など苦悶の表情を浮かべながら、自らの愁訴を訴えます。とてもじゃないですが、呑気に癒やしてあげたいLOVE★⌒ヾ( ̄〓 ̄ヾ)
などと言える状況では無く、現場は常に緊張感に溢れているのです。
それを知った時、人を癒すなどと軽々と自らが口にするのはとんでもないことだと気付きました。
癒やしって、本人が「感じる」ものであって、決してこちらが与えようと思って与えられるものでは無いんですよねぇ・・・それを勘違いすると私は癒やしを与えてるのよ的オーラ満点の「なんちゃってヒーラー」が出来上がってしまうのです。

私がなんちゃってヒーラーにならずに済んだのは、急性腰痛いわゆるギックリ腰のクライアントのお陰でした。ギックリ腰って、なった経験がある人なら分かると思うのですが、まさに魔女の一撃!動くことも、呼吸をすることさえもしんどくて、何をすることも出来ないのです。これは我々臨床家にとっても同じで、苦しむクライアントを前に何も出来ず、無力な自分に打ちひしがれる経験を臨床家であれば一度は経験したことがあると思います。
癒しを与えようなどと浮ついた気持ちで開業した私の自信は見事に打ち砕かれ、鬱々とした気持ちでこれからのことを考えていました。

そんな時に整体時代の兄弟子から操体法の話しを聞き、どうせなら本物を学びたいと思っている時に、師匠である畠山先生との出会いがありました。
早速、畠山先生に連絡させて戴き、受講することとなりました。
本を見てそれなりに予習はしていたのですが、実際に畠山先生の講習を受講し、如何にちゃんと学ぶことが大事かと分かり、それから真剣に操体を学ぶこととなり、現在に至っております。

私にとって「楽と快」は対比の象徴であり、学びの入り口となった、「癒しと操体」だったのかもしれません。癒しの言葉の響きだけをを求めて入った道ですが、癒しの本質は「快をききわける」本人の感覚の中にだけ存在し、決してヒーラー(臨床家)の決めつけや、押しつけではなく、身体という大宇宙の中にあるのです。
元々、楽に人生を歩いて来た私ですが、今週一週間は楽と快について私なりに考えてみたいと思います。