東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

『私にとって操体とは、巡る巡る空間と時間との螺旋』

(偶然ではない操体との出会い)

夢であっても記憶の一部なのだろうか。
私の叔母は車椅子に座ったまま、六歳の私に言った。
「大きくなったら、私のように自分で立てない人を、立てるようにしてあげる勉強をして、立派なお医者さんになってね」

それから年は経過し、バブル景気の最中、ハウスメーカーに就職。
法事があり親戚同士で集まった中、叔母は言った。
「就職おめでとう、建築家になるのね。覚えていないでしょうけど、小さい頃、私の足を治せるお医者さんになるって言ったのよ」

その言葉を記憶していた。
記憶とは便利である。日々の生活に追われ忘れ去っていく。

ある時、施工管理している建築現場にて事故は起きた。
2×4工法の壁を支えた鉄柱ごとクレーンが傾き、その下にいた私は逃げ遅れ、数枚の壁ごと下敷きになる。
それを見た職人は、私が死んだと思ったのだが、すぐに病院に運ばれて奇跡的に打撲で済んだ。
とはいえ、打撲の疼くような痛みは、痛み止めと湿布ではなかなか消失しなかった。

タイミングとは面白い。何かの必然性さえ感じる。

母の管理する貸事務所は、数ヶ月前から接骨院になっていた。
その怪我を診てもらったのだが、筋(スジ)を整え包帯を巻いてもらった。
それを境に、急速に痛みは減弱した。
感激した私は、柔道部に所属していた頃、怪我した先輩達は骨接ぎに通院、
一時その職業に憧れたことを話すと、その先生は言った。

「今からでも、遅くはないと思うよ」

私のなかの“意識”に直接、何かをとおしてつながった。
幼い頃の夢と叔母の言葉。柔道部時代の体験。就職してからの労災。
そして、骨接ぎの先生の直向きな姿勢。そして内なる声。

学生に戻った私は、その先生の薦めもあり、鍼灸按摩マッサージ指圧の専門学校へ入学、
治療院を紹介して頂いて研修、ホテルや旅館での按摩でのアルバイトを通じ、
学校の勉強と平行し”からだ”を学ぶことが出来た。

研修も二年目になると“慰安行為”としての按摩に嫌気がさし、
学校の図書室にある手技療法を片っ端から読んで、研修の合間に試していた。

この時、いわさきちひろ氏の扉絵が印象的な、橋本敬三先生の著書と出会うことができた。
そして、大きな一つの問題に気付く。

いったい、医師ではない医療行為とは何か(註)
自分の目指す医学って何の役割があるのだろう。症状疾患における臨床医学、器質変化のある病理学。
そもそも人間は健康であればいい、病理学に臨床医学など自分の目指す医学に指針はない。

そうか、予防医学なのか・・・。
「未だ病まざるを治す」未病医学に繋がっているのか・・・。

私の中ではもう一人の自分がつぶやく。
「それでもおまえ自身、納得いかないんだろう?」

そうなのだ。そこから先を知りたかったから・・・・自然法則の応用貢献を学ぶことになったのだ。

私にとってあの現実は、本当の生き方に問いかけていたのだ。
時間と空間の螺旋を紡いで目の前の現実になる、今ならわかる。
私は有り難いことに、操体を学びながらをその大切さを理解しつつある。
理解しつつあるというのは嬉しい困難でもあり、”普遍的な学びの道”となる。

そして本気で操体を学ぶなら、「操体にイノチを捧げている」人間を知っておくことだ。

橋本敬三先生の直弟子、三浦寛理事長からじっくり焦らず学んでみるといい。
自然法則の応用貢献を実践し、橋本敬三先生の波動を感じさせる何かと繋がっている。
私にとっては、未病医学と現代の医学をつなぐ架け橋になる”イノチについて”の学びそのもの。

分類好きな鳥類学者を指し、ゲーテの語った言葉があるので最後に引用して締めくくろう。

「彼らは特殊な鳥を見つけると、器用にさばいて得意がっている。
 しかし、自然は自由気ままに活動を続けており、
 人間のつくりあげた窮屈な分類など、気にすることもない」

今日はこんなところで・・・ありがとうございます。

(註):勘違いの多い『医業』と『医療』と『医療行為』と『医療類似行為』、
    医事法六法によれば、『医行為の一部的な解除』『広義の医療行為』として、
    国家資格により、鍼灸指圧師や柔道整復師を認定している。
    そのなかで『操体法』を法的に区分すれば『医療類似行為』に相当する。
    少々話を飛ばしてしまうが、この世では医師だった橋本敬三先生も、
    鍼や漢方を駆使した臨床時期があるらしい。
    しかし、同業者である医師には『操体法』を実践して欲しいと書いては推奨した。
    やがて反応が少ないので筆を断とうとした際、『医療人(=コメディカル)』や、
    『医療類似行為者(=整体師など)』や、『民間の要求』から有名になっている。
     私はこの流れでいえば、操体の広まり方とは実に理に適っていると感じている。