東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私にとって操体とは検証である

操体は我々の健康や病気、からだや精神の衛生といった日常問題を考えることにおいて、感覚医学とでも言うべき原子論的な自然法則を意識的にみるきっかけを持つことが出来るように思う。そして私にとって強烈な操体用語「からだの無意識」というのが初日の検証だ。
「意識」とか「無意識」といった言葉の意味について、現代心理学に沿った考え方を手短に論じてみる。我々は自分自身のことを「僕」とか「私」という言葉を使うが、その心理は、自分が他人とはどこか違った人間であるという意識を表明していることになる。まず、この意識というのは、「心」の働きの結果として現れてくる。しかし、この心の性質についてこれまでに多数の心理学者たちが諸説を出してはいるが、その見解が一致したためしがないのである。
ブライアンという学者の説では、我々は心を脳内にセットされた絶妙な電気エネルギー器官であると言っている。この説を考察すると、電気エネルギー器官から神経を伝わって筋肉や内臓器官へと絶え間なく流れているすべての生体電気的エネルギーは、この動力源によって発生するエネルギーであると説明することが出来る。そして、やがては死ぬ時期を迎えることになるのであるが、このとき、心はエネルギーとして肉体を離れる。その肉体から離れる瞬間の意識の状態に従って、自分自身を幽体として認識し、これが魂といわれるものである。ギリシャ語が語源である「サイキ」という言葉は「心」と「魂」の両方を意味し、「サイコロジー」はこのサイキにロゴスがついてできた言葉で「心理学」という意味である。
我々の心は、触れてみることもできなければ解剖所見を求めることも出来ない、つまり脳は解剖できるが、心は解剖できないしろものだ。それでも心は現存しており、心の内容は心理として調べることが出来る。その点は内臓器官とまったく同じである。心理学で言う心の問題は、いわゆる意識的な心のことであって、この部分には我々の感覚的なイメージ、記憶等を通じて集積された概念のデーターが保存されている。
我々の行動というのは、こうした概念データーから引き出されてくる。そして心とからだは相互作用に基づいて性格や自我といった機能的な単位を形成するのである。しかしこういった意識的な心は、潜在的な心全体のうちのごく僅かな部分を占めているにすぎない。心理学者カール・ユングは分析心理学の中で「意識的な心とは無意識という大海にちょっとだけ頭を出した小さな島影にすぎない存在」だと言っている。
「からだの無意識に問いかける」という操体操法の体験によって大いなるヒントを得た私は、無意識とは一体何なのか? と、探究心を刺激されてますます意識の研究に没頭することになる。我々は自分のからだの内部環境を意識することはできないが、それには「からだの無意識」というものが支配しているものと気づかされた始まりであった。無意識とは心の大部分を占め、そこに保存されたデーターが決して意識に上ることができない、あるいは意識によって抑えられている、そういった部分であると定義できる。
しかし操体でいう「からだの無意識」というのは、潜在的な無意識ではない。ユングの学説に従えば、無意識を潜在意識として残す「個人的無意識」と意識よりはるかに古い時代からのいわば種の無意識とも言える「集合的無意識」の二つに分けることができる。赤ん坊はこの種の無意識をすでに精神的財産として持って生まれてくるのである。他の動物の心も、このような共通した無意識が支配しているものと思われる。操体で行なわれる「からだの無意識に問いかける」というのも、すべての人間に共通で、各人の精神構造の土台をなす集合的無意識に問いかけるものであると、確信している。
このようにからだの無意識というものが私にとって探求心の止むことのない題材となっている。