東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私にとって操体とは(4)宗教観

操体を学んで何が面白いかと言えば、橋本敬三先生の「宗教観遍歴」である(宗教ではなく、「宗教観」)。
私自身は東京に出て来た両親と核家族で育ち、家には神棚もなければ仏壇もない(父の主義だったらしい)。父が亡くなってから、慌てて仏壇を買ったという家である。両親の実家はどちらも禅宗曹洞宗だが、東京で父が眠っている墓があるお寺は日蓮宗という状態(東京のお寺は最近宗派問わずが結構多い)である。
個人的には昔から神社仏閣好きで、中学高校時代は仏像にはまっていたので、寺社は大好きなのだが、特定のカミサマやホトケサマをどうこうという家ではなかった。
私は宗教に対して結構客観的なのだと思う。また、仏教や神道が面白いと思うのは、宗教ではなく、哲学だからなのかもしれない。
また「操体」が私の「信念であり宗教観」なのかもしれないと思っている(かといって、橋本敬三先生をカミサマ扱いするわけではない)。

16歳から18歳頃までは、キリスト教に出会い、救世軍に出入りしていたそうである。新潟医専時代に参加していた同人誌「あだむ」には、田舎の教会で手伝いをする、生真面目な青年が登場するが、多分ご本人がモデルだと思う。著書にも詳しいが、キリスト教の「霊」と「肉」一致の教えの間で悩み苦しんでいた。つまり、崇高な気分の時にあの世に行けば、天国行きかもしれないが、女性を見てムラムラしちゃったら「女を見て情欲を・・云々」で地獄に落ちるのではないかという苦しみである。その他にも色々申告な悩みがあったと書かれているが「性(セックス)の悩みが一番大きかった」と書かれている。その後、23歳の時にある牧師から聖書の一節を伝えられ「なんだ、最初から救われているのか」と気付かれるのである。
本来のキリスト教は、「絶対なる救い」があり、人間は生まれながらにして救われているという真理と、この世で地に足をつけて生きる「相対」(つまり報い)があるのだが、この世の事ばかりに執着しがちな人間達のために、現在のキリスト教は「救いはなく、報いのみである」と、説いていることも見通されている。


これは「原罪」、つまりアダムとイブが蛇の誘惑に負け、知恵の実を食べたために、楽園を追われた。その子孫である人間は、生まれながらにしてその罪を被っている、つまり救いはないということの「裏」をもだ。

以前、仙台の全国大会で、プロテスタントの牧師様の話を聞いたが「救いはない」とのことだった。

橋本先生が、キリスト教に一生入信されなかったのは「救いはある」ということに気づき、現在のキリスト教では「救い」はない、といっているからなのかもしれない。

というか、そろそろ戦争の色が濃くなってくる大正時代末期に「頑張らなくてもいい」と気がついたこと自体、なんだかすごいことである。

いずれにせよ「生まれながらにして救われている」「なあんだ、頑張れ、頑張れと頑張らなくてもいいんじゃないか」と気がついてから、それまでの悩み深い性格から、一気に呑気者になった、と書かれている。

橋本先生の本の中にはお釈迦様の話も出てくるし、60歳を越した頃から日本の神代文字に興味を持たれ、ホツマツタエなどを勉強されている。昭和30年代は神代文字カタカムナ文字などの研究ブームがあったという。戦時中は「神武天皇以前に国家が存在した」という話は御法度だったからだろう。

キリスト教、正體術、仏教、記紀以前の日本、式場氏との交流、桜沢如一氏の無双原理、谷口雅春氏の理論(特に「食」)、千島学説、沖正弘師のヨガ、金子卯時雨博士のサンクロンなど、橋本先生の周囲には面白い話が色々転がっている。これらの知恵が操体の中に活かされていると思うと、何だか楽しいのである。

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点

昨年、一昨年と、国民の殆どがカトリックのスペインと、ニュー・ムスリムの国であるトルコを訪れた。色々な国に行ってみるものだと思った。橋本先生は渡欧の経験はなかったようだが、トレドの大聖堂や、イスタンブールの広大なモスクをご覧になったら、どんな感想を持たれたのだろう、と思った。