東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

知識と知識・・・1

おはようございます。
昨日はロンドンオリンピックの閉会式は夜にあるとばかり思っていて、そのようなことを書いてしまいましたが、今朝LIVEでやっていましたね。失礼いたしました。

今日も蒸し暑いですね。
 こうやってブログの原稿を書いていても、額から汗が滲み出てきます。大したことがないような文章でも、書いている本人は結構必死だったりするのです。知恵熱が出ると言うと言葉の意味が違ってきてしまいますが、脳がエネルギーを消費し放熱も結構なものなのではと感じます。「バカバカしいと思うなよ。やってる本人おお真面目。見ているアナタはドッチラケ」懐かしいフレーズですが、知ってる人は知っている。知らない人は、お近くにいるナイスなミドルエイジの方に訊いてみてください。


 橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子が、人生読本「人間の設計」として「生体の歪みを正す」の本の中に収められています。
 その最後の方の文章に、このようなものがあります。

 だから「道だ道だ」って精神的なことばっかり言ったってね、法則を教えてくれなければ、その道の奥のことできないもんね。
 実践するのは本人がするしかないんだから。それの目印を何にするのかといったらね、気持ちがいいってことに逃げていきなさいっていうんだ。その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達してるから。説明に巧いこと言ってると思うんだな。
 アダムとイブが知恵の木の実を食べて天国から追い出されたでしょう。だから知恵が発達して勘が鈍ってきた。野生の動物には獣医はいない。みんな勘でいってるんですよね。人間だけは知恵があるから、今度は勘を意識しなさいっていうの。獣医は動物園と家畜にだけ必要なんだ。
 だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね。だから基本は気持のいいことをね、勘を鋭くしなくっちゃ。気持がいいってことになれば自然と安心するしね、愉快になるし、結局最後には有難いって思わなきゃ。有難いって思わないことに気がつくと懺悔したくなるんだ。
 
 この中で「知識」という言葉が二度出てくる。「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」という部分と、「知恵が発達して勘が鈍ってきた」という話の後に、「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」という部分だ。同じ「知識」という言葉でも、はじめの「知識」と後の「知識」では指しているものが違うように感じる。
 はじめの「知識」と後の「知識」ではどう違うのだろうか。読む人によって、感じ方は違うと言ってしまえばそれまでだが、ここは橋本先生がどのように識別した上で語っていたのか、色々と私なりに考察してみたい。これも「ケイゾー・コード」ですよね。
 キーワードは文中に度々出てくる「勘」「気持がいいってこと」「有難い」それと「法則」。
「勘」は何を指しているのかといえば、原始感覚だと思う。原始感覚とは、からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力のことで、全てのイノチに元々備わっている能力の事。つまり、はじめの「今は勘より知識が発達しているから」の「知識」とは、からだの要求はどうなのか、イノチの宿るからだは、これで「気持がいい」のか「悪いのか」というききわけをすっ飛ばしての「知識」なのだと思う。
「今は・・・」と限定する言葉を入れているという事は、昔は違っていたのだと感じる。昔の暮らしとか生活というものは、動に直結したものだったのではないかと思われる。生命活動といえば、無視できないのが、自己最小限の責任生活必須条件である「息、食、動、想」だ。昔の人は生きていく上で、上手くこの「息、食、動、想」の「自然法則」を取り入れ、廻りの環境とも調和しながら生活していたのだと思う。取りいれ方は、実践の中でからだにとって「気持がいい」のか「悪いのか」をききわけ、気持のいい方法を取り入れていた。
例えば、重いものを持ち上げる時や急激な動作の時は息を吸いながら行ってはならないとか。食についても身土不二という言葉は昔からある。想については、日本には昔から八百万の神々の思想と信仰がある。これも、心がからだを支配しているという発想からでは生じない。からだの御蔭で生きていられるという発想から生じたのだと思う。そして、からだが生きていられるということは、様々な環境の御蔭という発想にもつながる。だから木にも岩にも台所にも神を見出せ、自分の使う仕事道具にも神は宿ってくる。根底にあるのは、からだにききわけた「気持がいい」という感覚だ。橋本先生もラジオ放送3日目で「身体のほうが気持よければ、そんなにガメツク人をいじめる気にはならないでしょう」と語っているが、逆を言えばイノチを宿す、からだからの「気持よさ」がききわけられるから、優しくなれるという事だ。からだをとおして、自分の廻りの様々なものの、母心というものが身にしみて解るのかもしれない。悦びあり、感動あり、「お蔭様で」という慎みあり、そして「有難い」という感謝につうじる。ここで誤解してほしくないのは「身体のほうがきもちよければ」とは、からだが良いか悪いかの問題なのではなく、からだにききわけているのか、からだの「気持がいい」という感覚を味わったことがあるかの問題という事だ。
 少々例えが長くなってしまったが、昔の暮らしや生活というのは、イノチの営みでもある「息、食、動、想」の「自然法則」を上手く取り入れたものだったのだと感じる。上手く取り入れるには「勘」を養うという事。「勘」を養うには元々備わる原始感覚を磨くという事。様々な環境の中で、原始感覚を磨いてゆく、または磨かれてゆく過程において、その経験が「知識」となっていったのだと思う。その「知識」が少しずつ時間を経ながら、空間的に拡がり、定着していったのが「生活の知恵」というものだったのではないだろうか。
いきなり良い知恵は出てこないのだ。段々がある。聖なる知識の後ろ盾がなければ、知恵の木の実は禁断の果実ということであり、それをアダムとイブはいきなり食べたものだから、神様の怒りをかい、天国を追われたのかもしれない。
 はじめの「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と後の「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いを、電気もガスもない昔の生活はこうだったのではという想定をもとに考察してみたが、昔の生活様式が善で今の生活様式が悪としているのではない。どちらも良い面も至らない面もあると思う。しかし、これから先の事を想えば、今の便利さを当たり前と思ってはいけない。今の便利さはどこかに、しわ寄せを強いた便利さだからだ。そのしわ寄せは、どこに出ているかというと、地球環境、他の誰か、他の生きもの、気がつかないだけで自分自身にも出ている。
スイッチひとつでほとんどの事が可能という時代に誕生し、そこからスタートしていれば解り難いかもしれない。しかしスタート位置を前の段階に置いて意識してみても良いのではないだろうか。温故知新という言葉もあるが、昔に逆行するのではなく、「知識」のスタート位置を意識して変えてみて、改めて認識し直すという事も必要だと思う。そうすれば、もっと今の生き方が充実したものとなるのではないだろうか。「有難い」という気持ちにもつうじてきますよね。


2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定