東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

知識と知識・・・3

おはようございます。
今日は終戦記念日ですね。
今年はオリンピックイヤーで、意識がそちらばかりに向きがちでしたが、悲惨な出来事を繰り返さない為の「知識」として、語り継がれる「記憶」として、意識を向け、心に刻んでおかなければならない事実もありますよね。 
 つい先日の新聞で知ったのですが、昭和18年、ソロモン諸島で散華した山本五十六は、一貫して米英との開戦に反対し、日独伊三国同盟にも異を唱えた人物であったそうです。戦争回避を模索し続けた山本五十六が、真珠湾攻撃の立役者として歴史に名を刻むことになったのは皮肉な結果です。その真珠湾攻撃も本人の意に反し、日本大使館の怠慢から米国への最後通牒が遅れた為、騙まし討ちという受け止められ方ともなってしまいました。
その為か、表立った顕彰は長く控えられてきたようです。しかし、最近は軍人としてよりも、旧長岡藩士の家に生まれ「米百俵」の逸話で知られる旧長岡中学で学ぶ、という環境から培われた人物像とその言葉が、教育や自己啓発の分野で脚光を浴びているようです。
 ちなみに「米百俵」の逸話について簡単にまとめると、北越戦争と呼ばれる戊辰戦争の一つで敗れた長岡藩は財政が窮乏し、藩士達はその日の食にも苦慮する状態だった。このため窮乏を見かねた支藩の三根山藩から百俵の米が贈られる事となった。長岡藩士達は、これで少しは生活が楽になると喜んだが、藩の大参事・小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず学校設立の資金にすると決めてしまう。藩士達はこの決定に驚き、反発して虎三郎のもとへ押しかけ、抗議するが、虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵になる」と諭し、藩士たちも納得し、旧長岡中学などの前身となる「国漢学校」を設立し、地域ぐるみで教育に力を入れていったのだという。
 
今日も、橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いから考えていきたいと思います。
 一昨日も昨日も書きましたが、どうも今の世の中を生きる私達の知識というのは、大部分が途中からというか、根の生えた知識ではないような気がします。それが情報として、あちこちに浮遊している、そんな感じがします。目まぐるしく変わるマスメディアの健康情報などは、その典型ですね。
今も昔も赤ん坊が大人になっていく。これだけはどんなに世の中が変わろうと変わらない。大人になるには、社会の一員としてある程度の常識と知識を持ってもらわなければならない。だから、詰め込み教育もある程度必要だと思う。しかし、単に詰め込むだけで良いのだろうか。社会の一員となる前に、人間は自然界の一員として生を受けているのだ。そして自然界の一員としての原始感覚も必然的に備えている。学習の分野でも、この原始感覚を大いに活用すべきではないかと思う。活用していけば原始感覚もおのずと磨かれていくと思う。
人間とコンピューターとは違う。コンピューターは情報を入力すれば、それをそのまま記憶してくれ、操作一つで情報をそのまま引き出してくれる。検索機能も使えて大変便利だが、情報の引き出し方が下手だと意図しない情報が引き出されてしまう。正確なのだが、その場その時の状況での、阿吽の呼吸のようなものとはならない。情報は流通しているようでも止まっている。情報は情報だけでは活きないのだ。情報を活かすのは流動性を持つ自然と人間だ。人間はコンピューターのような正確さは持ち合わせていない。しかし、その場その時の状況で、正確なもの以上に、情報をより良いものとして活かしていく能力がある。その能力を能力たらしめているのは感覚だ。その感覚は、からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力である原始感覚を元としている。
教育の場でも、これからは感覚をとおした学習法というのが、もっと見直されるべきであると思う。こう書くと、どんなことなのだろうと思うかもしれないが、みんな誰でもやっていることなのだ。要はその比重が多いか少ないかということ。からだに、どうヒビイテいるのか、ききわけながら学習するということが、どれだけ出来ているかということだ。
出来る人は知らず知らずに出来ている。出来ない人は、それを味わおうとせず、先へ先へと急いでしまうのではないだろうか。解った→ハイここまで→次、というかたちで、浅いところを次々と突っついては、情報処理をしているだけなのではないだろうか。これでは自分の我の範囲を超えたものは入ってこないし、個別対応は出来ても、知識が全体的なつながりを持たなくなってしまう。しかし、ものごとというのは根底ではつながっている。どんなものでも自然界に自在するものを元として存在を示している訳なのだから。
自然界の一部である、からだからの感覚をとおして何か感じられれば、学んでいることが、より面白く深くなっていく。そして、表面的に難しく感じていた他の学びも、根底の方からみる事で面白くなっていく。そのような、つながりをもった知識が出来上がってくる。この原動力は何からくるのだろうか。それは原始感覚で、ききわけた快が原動力となっている。このあたりも有り難く出来ているのだ。
 自力で快による原動力が発揮できれば一番良いが、他の人の助けでも、快の原動力を発揮する為の方向性に誘導してあげることが出来る。それは「褒める」ことだ。橋本先生は子供が来ると、「めんこい、めんこい」と褒めてばかりいたと聞く。そして「子供は、ほめてやるのが一番だな〜。すなおな子供に育ってほしいと思うんなら、ほめてやればいい。ほめてやれば子供も気持ちがいいんだ。気持ちよければ、ヘソ曲げたり、いじけたりするもんか」と話されていたという。大人でもそうだと思うし、陰湿なイジメをする人間には育たないと思う。


最後に山本五十六が、よく口にしていた言葉を紹介します。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

「未病を実す」を根底とする操体の臨床、健康指導の場にも当てはまる言葉だと思います。
 

2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催