東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」と「知識」・・・「理屈」より

おはようございます。
今日は暑くなりそうですね。所どころで体温よりも気温が高くなるようですが、バランスを崩さぬよう、どうぞ御自愛願います。
 

しつこいですが、今日も橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いについて考察した事柄からです。

橋本先生は「人間は理屈ばかりこねる。それじゃ駄目だ。知識で判断するから間違うんだ。ちなみに、動物は学問しない」という言葉も残しておられる。
これは「操体法〜生かされし救いの生命観」の中に出てくるが、ここでの「知識」は「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」を指すのではなく、「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」と同義の「知識」と思われる。しかし、言い方を少し変えて「人間は理屈ばかりこねる」と前置きしている。
ここで、「理屈」ということについて考えてみたいが、辞書を引いてみると2通りある。
  1、物事の筋道。道理。「―に合わない」「―どおりに物事が運ぶ」
  2、無理につじつまを合わせた論理。こじつけの理論。へりくつ。「―をこねる」
「人間は理屈ばかりこねる」の「理屈」は2の方であるのは言うまでもないが、1も2も人間を中心とした観点から捉えたものだと感じる。1の方も2と比べれば、聞こえは良いが、あくまで人間中心に合理的に物事を遂行するための理由付けのような感じを受ける。
こちらもエゴが見え隠れする。考えてみれば「理屈」という言葉と「筋道」や「道理」という言葉を使う場面とでは明らかに違う。「理屈」は「理」が屈すると書く。「理」が屈してしまう。「理」が立たない。次に私が何を書くか、もう御見通しですね。つまり「理屈」では「真理が立たない」ということなのだ。
 人間のエゴに向いた合理的考え方にもとづく、物事の進め方というのは、必ずどこかで屈折してしまう運命にあるのではないだろうか。人間は天と地とのあいだに挟まり、自然の中でしか生きていけないのだ。人間の理屈に自然の摂理を合わせるという、人間から見た合理的なやり方はいつか破滅する。現に所どころでその予兆は警告として表れてきている。これからは、自然の摂理という理に、人間の理を合わせていく考え方が必要なのではないかと思う。
 これは自分の外の大自然にだけでなく、自分の中の自然にも言えることだと思う。自然法則がちゃんと自在してあるのだから。しかし、この自然法則もアタマで理解しようとすると理屈の論理になってしまい、不自然さが生じてきてしまう。なぜなら、アタマに入ってきた情報というのは止まっているが、自然界の一部である「からだ」は、恒常性はあるものの常に流動的であり、外の環境とのかかわり方も、常に一定とは限らず流動的であるからだ。
自己最小限必須責任生活である「息」「食」「動」「想」についても、それぞれ自然法則が自在するが、からだの状態によっては、そのとおりに出来ないこともある。程度にもよるが、どこかに怪我をしている時、「動」の法則どおりに、からだを使い、動かしているつもりでも痛みが出ることがある。この場合は痛みという原始感覚のサインに従った方が良い。それ以上やってほしくないということなのだから。それをアタマで「こうしなければいけないんだ」「こうすれば良くなるんだ」と、からだに無理を押し付けるようなことをすると、かえって良くない。からだという自然に「こうすればこうなる」というアタマでの理屈は当てはめられないのだ。当たり前と言えば当たり前だと思う。しかし、実際に大きな痛みを感じないと、それがわかりづらくなっているのが人間であり、人間のエゴなのだ。
また、「息、食、動、想」はバランス現象だが、「想」の法則の中には「頑張るな」「欲張るな」「威張るな」「縛るな」というバルの戒めも含まれている。だから、実際に「動」で痛みはなくとも、そういうアタマの理屈を押し付けること自体「想」の部分で法則違反をすることとなり、バランスを崩すことにもなる。ここでは「動」の部分で自分のエゴが満足しても、からだの満足ではない為、からだは良くなってはくれない。私はこのことを経験上、嫌というほど味わっている。できればその当時に戻り、やり直したいとも思うが、それもエゴであり、慎んで受け入れるしかない。
反省して、「原始感覚」を頼りに、またすぐに再出発だ。こうしている間にも、自然と自分自身により、時間は流れ、「息」「食」「動」「想」というイノチの営みの要求も、環境も変化しているのだから。悔いることばかりに時間を費やしていては、また「想」からバランスを崩してしまう。後悔ばかりしていて、「原始感覚」を頼りにした行動に移れないと理屈っぽくなって、「知識」を頼りに言い訳ばかりしてしまうのかもしれない。反省したら、それはひとつの経験からの「知識」として、また原始感覚を頼りに快の方向への行動に移る。そして、より良い状態に自分が更新された時、その時の経験からの「知識」が、今の自分に、「懺悔」と同時に多大な「有難い」をプレゼントしてくれると思う。



2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催