東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

『インスタントの甘い罠』

患者本人のイノチにむかって問いかける。鍵穴を観る。
ピタリと合う鍵は快適感覚にある。
感覚の調和というプロセス(治癒する過程)によって治癒する。

操体法」は、「快適運動」という、「正体術」に近い操法を通していた時代を経て、
現在は「快適感覚」という、橋本敬三師の生命哲学思想そのものに適うようなった。
そう。ようやく「操体」に適うよう温故知新による”深化”を伴い、
その確立された診断法と操法の組み立ては「操体法」そのものとなる指導さえも可能としている。

生命哲学理論ともいえる構築の軸に『自力自療』がある。

橋本敬三師は晩年、NHKで取材を受けラジオやテレビに取材を受けた時に、
操体法』と便宜上の名称をつけ・・・、
「(やっていることの)名称なんてどうでもいい、大切なのは真理だ」
「からだのサインを読め、からだが治しているのだから」と語っている。

記憶の中にあるメッセージをふと思い出す。
私の柔道整復学校時代、荏原町にあった整形外科で修行していた頃の話である。
そこに外国から来て働いている患者が上腕骨骨折の治療に来ていたのだが、なぜか治りが遅いのである。
何か整復上の問題があるのかとレントゲン撮影で診ても転移無し、しかし本来の仮骨形成期間を過ぎてもつながっておらず、
患者本人は至って健康的に見え、若く体力もあるのにどうしてなのかと、担当医も先輩の柔道整復師も頭を捻っていた。

「環境」と「食」は勿論、相関している。
じつは治癒遅延の理由に、本人の給料ほとんどを海外の家族に送り、六畳で同じ境遇の三人で暮らす上に、
日々、特売袋ラーメンで食欲を満たす、とわかったのは骨折から一ヶ月も過ぎた頃だった。

私自身は「操体」を学び原始感覚を磨いている。
以前はほとんど感じ無かった感覚をも感じるようになり、「重力」と「環境」ほど密接なものはないと確信してきた。

一例に[ウォルフの法則]を挙げよう。ドイツの解剖学者であったウォルフ氏は、
「正常にしても、異常にしても、骨はそれに加わる力に抵抗する最も適した構造を発達させる」と語り、これをウォルフの法則とした。

簡単にいえば、骨には外力によって骨の内部にそれに応じた力が生じるので、その結果その方向に骨は歪む(これが骨折を代表とした骨構造の歪みを生む)
但し、その応力が大きい部位ほど骨の組織も増殖するので丈夫になるように外力に反応する。
その反対に、応力が小さい部位には骨組織が吸収されて薄くなる。なので、外力に対して最も適した骨の形態と構造は維持されるのだ(骨変形も変形治癒もこれが一つの理由)

面白いですなァ・・・ということは、要するに歪みとは「生き方の自然法則」の内にあり、「身体運動の法則」によって、現象として現れているだけなのだろう。

つまり「操体」における「自力自療」も、
最低限必須である”自己責任分担”において、命の営みはからだに結果としての応じた形になる。
まさに、「操体」における”歪みの発生”そして、”可逆性”をも証明しているではないか。
自然体。姿勢とは骨格や骨組みのみならず、人体は動く建物であり、それによって生じる現象。

操体」の臨生家(生かされていることを指導できる臨床と私自身は感じる)にとって素晴らしい現象は、”当たり前”なのだ。
故に謙虚さこそ肝心要であり、ここに自然法則の応用貢献を成す道はある。

どこまで診ているのか、どこまで見ているのか、どこまで看ていられるのか。
日が昇り日が落ちるように、ありのままに、そのままを観る。

問診情報を経て、視診を経て、触診を経て、さらに様々な検査しておくことも出来て、
その上でかつ、何かにとらわれず観とおすこと。

それほどのことさえ当然。
このような時代に操体は種をまかれて育っている。
それこそ、一生愉しめる糧を学ぶもの一人一人にたくしつつ。

あっちので微笑んで、こっちでも見守っている・・・ように感じてならない。

2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催