東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

五日目 道元と橋本先生

私は1200年前の道元の教えに強烈に引き込まれている。
十数年前に手にした中野孝次箸、「道元断章」である。

道元断章―『正法眼蔵』と現代

道元断章―『正法眼蔵』と現代

著者によって、道元その人に対する評価がちがうのだが、この本だけは、すんなりと心にとおってくる。
時間があれば、この断章の時環(じかん)に親しんでいる。
なぜひかれるのか。
橋本先生がとらえるところの、本質、いのちといのちの生命観と、よく重なっているからだ。
道元を読むと、橋本哲学の全体の一端がうかびあがってくるので、何度でも目を通す。
入ってくる同じ言葉が、その都度変化し、私にききわけさせてくれるのだ。
そうした学びが愉しくて仕方ない。

1200年前の禅師が、今は亡き橋本先生が、語りかけて下さるようで、ありがたいのだ。
これはまさに「守破離」の離ではなく理(り)そのものの姿ではないかと思う。
私は禅僧の世界にいる者ではない。しかし橋本先生のご縁の中で、その教えをはぐくんできた故に、
少しづつ、道元の教えも響くようになって来た。

人生は苦労して苦労して、苦しみつづけてつかむものではないようだ。
それを愉しみに、歓びにかえていくか、どうかである。
人はその中で、一輪の花を目に留め、見上げる。雲を、星を見て、ホッと癒される。
癒されるから報われる。
報われていると感じれば、一輪の花に生かされていると気づくであろう。

おまえが見なくても、そう思わなくても、自分をみている、その者が、
そう感じていることだろう。そうか、そうだったのか。
自分は自分であるのだが、そこに自分という色をつけてみる必要はない。
存在している、でいいのではないか。
自分の背後には、自分を超えた命を感ずれば、今までの自分という輪郭が消えていく。
それは、今まで引きずってきたものがなくなっていく。しばりや執着や我欲が去って行く。
自分とのへだたりがなく、一斉のものが自分であり、自分が一斉のものと溶けあって調和していることを知る。
ありに在るのなかに自分自身がいる。
分離のない自分を知ることができる。


橋本敬三先生の墓前にて