東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」の編集工学

今日から一週間、日下が担当します。

今回は、我々人間が持っている「知識」というものについて、考えてみたい。そこでギア代表 編集工学研究所の特別研究員である太田剛氏の持論「アイデンティティ否定論」に基づいた、知識の「編集工学」を試みることにした。特に療法家が持つ知識のあり方にスポットを当ててみようと思う。

我々人間というのは他の動物と違って絶えず進化・発展していく動物だと言うことができるが、そのように人間が発展していくには「知識」と「存在」という道筋があるからであり、正しい進化においては、知識と存在とは互いに並行し、同時相関相補の関係性で発達していくという法則に基づいている。

ところが、いずれかが先に進んでしまえば、人間の発達は誤ったものになり、遅かれ早かれ行き詰ってしまうことになる。一般的に言って、我々は「知識」というものが意味するものを理解しており、またその知識にさまざまな段階が在ることも理解している。

取るに足りない小さな知識もあれば、偉大な知識もあり、いろいろな質の知識があることも我々は理解することができる。

であるにもかかわらず「存在」に関しては全くといっていいほど理解していない。我々にとって存在とは、単に「非生存」に対する「生存」という意味でしかないのである。「存在」と「生存」は非常に異なった段階であり、分類でもあることを理解していないように思える。

たとえば鉱物と植物の存在は違った存在であり、植物と動物の存在も異なった存在であり、動物と人間の存在も確実に異なっている。しかしそれ以上に二人の人間の存在が、それらの関係よりももっと互いに異なっていることを理解していないことが問題なのである。この関係をアイデンティティ、すなわち「自己存在証明」というような誤解をしてしまうと、人間の存在が「単一の生存」に終わってしまう。

我々はまた「知識」というのは「存在」に依存しているのだということが解っていない。そればかりか、理解したいともまるで思っていないのである。特に西洋文化にあっては、人間は巨大な知識を所有できるとさえ考えている。

たとえば有能な科学者は研究を重ね、新しい発見によって科学を前進させるかもしれないが、同時に、狭量で、利己主義で、あら捜し好きで、下品で、嫉妬深く、虚栄心が強く、遇直で心が空っぽの人間であるかも知れず、またそういった権利を必ずもっていると考えられる。しかしそれでも、それが科学者の存在なのである。

我々は科学者の知識は科学者の存在に左右されないと思っており、人間の知識のレベルには大きな価値を置くのに、存在のレベレに対しては価値を認めないのである。そして自らの存在レベルが低いことを恥とも思わないばかりか、その意味すら解っていない。それゆえ人間の知識はその存在レベルによるのだということが理解できないでいる。

このように今日の文化では「存在」に対する「知識」の優勢が見られ、価値についての考えや存在レベルの重要さは完全に忘れられている。また知識のレベレは存在のレベルによって決定されるということも忘れられている。

前置きはこのぐらいにして、私たち操体における「快適感覚」にも気もちよさや心地よさの質、すなわち存在レベレがある。患者に対して快感覚をききわけさせる際に、いくら「頭で考えないで、からだにききわけて」と促しても知識が先行していれば、必然的に脳に記憶されている知識から考えてしまうのである。

それは知識人としてやってくるクライエントの場合には、その整復効果をまったく期待できないということになる。まして「からだにききわける」なんてことは、そのクライエントにとって神業に近いということだ。これを解決しない限り、単なる時間の浪費に終わってしまうしかない。

また逆に存在が知識に先行すれば、感覚に対して過剰な反応を起こし、感覚そのものが暴走して「最快適点」を見失ってしまい、これも治癒につなげることは難しい。

このような結果になるのは、存在と知識が調和していないからであり、存在と知識、どちらが先行しても、からだの真の要求に十分応えることができず、迷走することになる。

明日につづく