東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」の編集工学(三日目)

昨日のつづき

「知識」と「理解」の違いと言うのは、知識は「知性」だけの機能であり、理解は「知性」と「感情」と「動作」の三つの機能からなっている。だから、思考器官は何かを知ることはできるが、理解するには、それに関係していることを人間存在として全存在をもって感じ、直感することができたときに初めて生まれるのである。

実際に人間行為の範囲内において、我々は単なる行為と理解との違いを非常によく知っている。我々は知ることと、いかにして為すかを知ることとは別なことであり、いかに為すかを知ることは知識だけからは出てこないという事を了解している。
ところが実際的な行為の範囲外では、「理解」の意味ははっきりと理解していないのである。

一般的に言って、我々があることを理解していないと気づいたとき、その「名前」を見つけようとし、そしてその名前を見つけると、自分は「理解した」と言う。
しかし名前を見つけることは理解することではないが、我々は不幸にも名前で満足しているのである。たくさんの名前、つまり多くの言葉を知っている人が多くのことを理解していると思われている。
もちろんそれは我々の無知がすぐに明らかになるような実際的な行為の範囲を除いての話であるが。

私たち療法家もクライエントの症状、疾患について真の理解がなされていないと、疾患名を見つけようとしてしまう。
しかし疾患名を見つけたところで疾患を理解したことにはならない。

また操体では「症状・疾患にとらわれない」と言っていることから、疾患名に興味はないというかも知れないが、そうなると今度は治すことのハウツーに走ってしまう。そこで操体はこれでもか、と「治すことに関与するな! 」と言う。
さあ、どうすればいい! そう、疾患そのものを理解することしかないのである。

だがしかし、理解というのはそんな簡単なしろものではない。まず、「理解」を理解していなければ誤解してしまうことになる。
なぜなら、人間の活動における「知識」と「存在」との乖離、また、その乖離の部分的には原因であり、結果でもある「理解」の欠如は、一つには人々の話している言語に由来しているからである。この言語というのは誤った概念や分類、誤った連想でいっぱいだ!

そして重要なことは、普通の思考法の本質的な特性、つまりその曖昧さと不適切さのために、個々の語は、話し手が好き勝手に出す話題と、そのときに我々の内で働いている連想の複雑さに従って、何千という違った意味をもちうるという事である。

我々の言葉がどれほど主観的であるか、つまり、同じ語を使うときでも一人一人がいかに違うことを言っているかを人々ははっきりと認識していないのである。

我々は、他の人々の言葉をただ曖昧に理解するか若しくは全く理解せず、また、自分には未知の言葉を話しているなどとは考えもせず、それぞれ自分勝手な言葉を話しているということに気づいてもいない。
我々は、自分たちは同じ言語を話しており、互いに理解しあっているという非常に強い確信、あるいは信念を持っているようであるが、実際には、この確信に何の根拠もない。
このように我々の話している言語は、実際の生活の中だけなら何とか使いものになっている。

つまり、実務的な性質の情報であれば、我々は互いに意思疎通ができるのであるが、少しばかり複雑な領域に踏み込んだとたんに道を見失い、気づかないうちに理解することをやめてしまうのである。
しかしこの理解こそが臨床において、治癒への方向性を示してくれることになるのだということを、療法家は知らなければならない。

明日につづく