東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」の編集工学(四日目)

昨日のつづき

操体フォーラムに参加した人の中には「操体という知識が一般的な医学や哲学と異なる、あるいはそれより優れてさえいるかも知れない知識が存在するとすれば、なぜそれは、そんなに注意深く隠されているのだろうか? なぜ共有の財産としないのだろうか? なぜその知識の所有者は、虚偽や悪や無知に対して、より効果的でかつ見込みのある闘いのために、喜んでそれをみんなの前に差し出して広く行きわたらせようとしないのだろうか? 」と、まるで秘教主義思想にでも触れたときの心に起こってくる疑問のように感じている人もいるかもしれない。

しかし、操体の知識は決して隠されてはいないし、いかなる神秘もない。ただ知識という性質そのものからして、それは共有の財産にはなり得ないということである。知識というのはすべての人、いや多数の人のものとさえなることはできないということを理解する必要がある。我々は知識が地上の他のものと同じく『物質』であるということを理解していないから共有できないことが分からないでいるのだ。

物質であるとは、物質性のあらゆる特性を備えているというということであり、物質性の第一の特性の一つは、物質は常に限定されている、つまり、ある場所、ある状態のもとでの物質の量は限定されているということである。砂漠の砂や海の水でさえ一定不変の量であり、それと同じように知識も物質であるから、ある場所、ある時のそれは一定の量しかないのである。

たとえば一世紀間、人類は自由にできる一定量の知識を所有していると言うことができる。人類の生活を普通に観察していても、知識という物質が少量取られるか多量に取られるかによって、まったく違った性質を持っているということがわかる。ある場所で一人が少人数のグループに多量に取られれば、知識は非常にいい結果を生むが、多人数が取ってしまえば各個人はわずかしか取れないので、何の結果も生まないか、あるいは我々が期待していたのとは反対の否定的な結果さえ生み出しかねない。

だから、もしある一定量の知識が何千万という人々に分配されれば、一個人の取る量は非常にわずかになり、そんな少量では、生活の中でも、物事の理解においても、何一つ変わりはしないことになる。そして、この少量の知識を受け取る人の数がいかに多かろうと、その人々の生活はまったく変わらず、いやそれどころかもっと困難になるかもしれない。

しかし、その反対にもし多量の知識が少数の人々に集中されれば、それは非常に大きな結果を生みだすことになる。この観点からすれば、知識を大衆の間に広めないで少数の人々の間に保っておく方がはるかに有利なわけである。

たとえば、もし一定量の塗料で多くのものを塗装しようとすれば、それだけの量でどれほどの数を塗装できるのか、正確に知っているか、もしくは計算する必要がある。もし大量に塗装しようとすれば、塗料は不均等にしかつかず、まだら模様のようになって、初めから塗装しない方がましだったということになる。そして結局、塗料はなくなってしまうのである。

知識の分配もまったく同じ原理に基づいている。もし少数の人々の間で保持されれば、各自は保存に十分なだけを受け取るだけでなく、それを増やすこともできるだろう。知識を多量に取る者がいるために、知識をいわば拒まれた人々がひどく惨めで、必要以上に不当な立場に置かれていると見えるところから、この理論は一見ひどく不公平に思えるかもしれない。しかし、実際には決してそうではない、知識の配分においては露ほどの不正もないのである。

明日につづく