東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「知識」の編集工学(六日目)

昨日のつづき

先にも述べたとおり、知識は決して隠されてはいないし、いかなる神秘もないと言った。知識というのは誰も何一つ隠してはいないし、またいかなる神秘もない。しかし、真の知識の習得、あるいは伝達においては、多大の労力と努力を、それを受ける者にも、それを与える者にもその両方に要求してくる。

そしてこの知識を所有するものは、それを可能な限り多数の人々に伝達し、分かち合うため、また人々がそれに近寄りやすくなるよう、あるいは人々が真理を受け取る準備ができるよう、あらゆる手を尽くしているが、知識は力ずくで人に与えることはできない物質である。

知識の所有者が知識を隠しているとか、知識を人々に与えたがらないとか、知っていることを人に教えようとしない、などというのは、平均的な人間の生活を、つまり人々が毎日やっていることや興味を持っていることなどを偏見なく見るならば、すぐにはっきりすることだ。

知識を手に入れたいものは、すべての人に与えられている助けと指示を利用してその源を探り、それに近づく努力の第一歩を踏み出すことが絶対に必要なのである。しかし、概して人々は、そんな助けや指示を見たいとも認めたいとも思わない。

けれども本人の努力がなくては知識を得ることはできないのだ。普通の知識に関しては、このことはとてもよく理解されているが、操体のように奥義を極めなくてはならない知識の場合となると、その存在の可能性を認めさえすれば努力は不要だと思ってしまうのである。

たとえば、外国語を習得したければ、少なくとも数年間は一所懸命に勉強しなければならないし、医学の原理を把握するには五〜六年は要するであろうし、絵画や音楽を勉強するにはおそらくその二倍の年月が必要だということは誰でも知っている。にもかかわらず、最近において、努力もせず、眠りながらでも知識を手に入れることができると主張する睡眠学習説までとび出している。

そんな説があるということ自体、なぜ知識は人々のものとなることができないのかを、さらにはっきりと説明してくれる。同時にこの方面で何かを得ようと一人で努力しても、いかなる結果も得られないことを理解することが絶対に必要だ。

人は知識を持っている人々の助けがあって初めてそれを手に入れることができるのである。これはいちばん最初に理解されなければならない、人は知っている人から学ばなければならないということを。

ではどのように学ぶのかというと、スクール方式の言語伝達ではない! 東洋では師弟関係が存在する。師匠は弟子に対して直接教えたりしないで、まず、手本を見せる。そして弟子はそれを見て、自分の内にそのイメージを植えつけることから始まる。このイメージができないと学ぶことができない、しっかりと心の内にイメージすることが最も重要なことになる。すると、どうだろう、何かに導かれるように上手くできるではないか。これが師匠について習うということなのである。

操体の講習においても、師匠の手本を見て、「いきなり模倣しないで、まずは見ていなさい! 」と諭されるのは、初学者にとって最初に学ぶのは意識的に見るということであり、真似る事ではない。このようにして観るのと、それを想念に納めることを『観術』と称して、師弟関係において言い慣わしているものだ。

明日につづく