東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「息」について想うこと。

おはようございます。

そろそろスギ花粉の飛散が始まってきたようですね。
私は、それ程重度の症状ではありませんが、この時期になると目が痒くなったり、知らず知らずにうちに鼻水がツ〜と垂れてきたりもします。

それをあまり気にしすぎると余計に気になってきて、気になると更に鼻がグジュグジュしてきて、ツーンと痛くなってくるような気もします。症状の程度こそありますが、自分で病気をつくってしまってはいけませんよね。


スギ花粉だけでなく、北西の季節風が強くなるこの時期は、急激に工業化が進んだ隣国からも、厄介なものが空気に混じって、飛散してくるという。

PM2.5というのだそうだが、スギ花粉の12分の1という非常に小さな微粒子状物質で、主に車の排ガスや工場の煤煙に含まれているという。

これは大気汚染の原因となっている物質であり、かの国の首都の映像を見ると、空はスモッグに覆われ、ほんの数メートル先もよく見えない状況となっている。様々な健康への影響が懸念される。


人間にとって、自己最小限の責任生活必須条件である「息」「食」「動」「想」は、なぜ「息」が一番はじめになっているのだろうか。なぜ操体法の創始者、橋本敬三先生は「息」を一番はじめにもってきたのだろうか。

一つには生命の存亡に直結しているのが「息」だということがあると思う。「息」が出来なくなるイコール存在が亡きものとなるということだ。それほど重要な「息」だが、私たちはその事を意識できているであろうか。

ほとんどの人は、息をしているのは当然なのだから、そんなことに、いちいちかまってられない、というのが実情だと思う。それが普通なのかもしれない。しかし、その普通という考え方は自然からしてみれば、普通ではない。人間の考え方が間違っているということになる。

人間(生命)は、環境とのかかわりがあって、はじめてその存在が成り立つ。環境には自然環境、社会的環境、人為的環境とあるが、生命現象を成立させているのは自然環境だ。つまり、自然環境との調和の元に生命として成立し、生かされて生きているのだ。

そして、生かされて生きていることが元になり、社会的環境や人為的環境とのかかわりを持ち、生活(生命活動)を営んでいる。だから本来、生活とは自然環境とのかかわりを軸にして、社会的環境や人為的環境との折り合いをつけていくものだ。

こう書いている私も以前はそうであったが、今の世の中に生きる現代人は、生活ではなく、衣食住の暮らしむきの豊かさ、便利さ、豪華さという社会的環境、人為的環境での優越の方に軸足をとられてしまっている。

だから息をしていられることの有り難さと言われても、ピントこないのかもしれない。

しかし、かの国の首都の大気汚染の現状を見れば、意識を変えなければならないと思う。この日本国も40〜50年ぐらい前はそういう時期があった。今もその後遺症で苦しんでいる人達がいる。決して他人事ではないのだ。

公害は営利優先の企業も悪い。それを認可した国や自治体も悪いだろう。かの国では、コストを減らすため有害物質が出るのを解っていながら生産を続け、それを取り締まる側に賄賂を渡しているという話も聞く。

しかし、企業や行政のせいにばかりして、各個人に責任はないとはいえないと思う。特に大人はそうだ。

行政に参加する権利と義務を有しており、経済発展の恩恵を甘受しているということもある。しかしそれだけではない。各個人の生き方の問題もかかわってくる。

同じ空気を吸いながらも、体調を崩す人とへいちゃらな人もいるのは事実なのだ。そんなの生まれつきのこともあるのだから、しょうがないだろうという意見も当然あると思う。

しかし、自分の人生なのだから、しょうがないばかりでは済まされないと思う。それでは、自分といつも共にある、からだにも申し訳ないのではないだろうか。他人事ではなく自分事なのだ。

自分の健康を増進させ、まわりの環境にもやさしくなることが求められる。

幸い、さまざまな環境と「息」「食」「動」「想」は、鎖の輪のようにつながっており、同時相関相補連動性であり、あるものが悪くなれば、他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質がある。

息をしていられることに、有り難さを感じる、感謝できる、とは自分自身が良くなり、環境も良くなることの根底にあることだと思う。

これは、「息」「食」「動」「想」の生き方の自然法を理解する為に、重要なことであり、その理解が深まるに連れて、自分がよりよく生かされて生きる、ということにつながってくると思う。