東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「操体と生きる6」

今日は紙面で話題になっている「体罰」について書いていこうと思う。

柔道の女子ロンドンオリンピック代表や大阪の高校で起こった体罰問題。
一体どこからが体罰の基準になるのかはよく分からないが、恐らく強い立場の人間が弱い立場の人間に手を挙げた、もしくは手を挙げられた者が心に深い傷を負った時点で体罰として成立するのであろう。

私も小学校の時に担任の先生に手を挙げられた記憶がある。その原因は「いじめ」であった。
私からすればほんの軽い気持ちで相手をぶったのだが、私が想像していた以上に相手は傷ついていた。そんな私の悪ふざけが許せなかったのだろう。担任の先生は授業中にも関わらず私を廊下に呼び出し無言で数回顔を殴ったのだ。現在になって考えてみると先生はぶたれた相手よりも私の事を心配して殴ったのだろうと思う。当時は怨んだりもしたが本当にあの体罰がなければ現在の私は人の痛みが分からぬ人間であったと思う。いつか会える日がくれば先生に「ありがとう」と言いたい。
しかし、こういった愛のある「体罰」でも現在では問答無用に問題とされる時代となった。時代が「心と心のコミュニケーション」を重視するようになったからである。それは「体と体のコミュミケーション」では相手に自分の想いを伝えるのが困難な時代になったとも捉えることが出来る。

こういった事は「体罰」だけに限らず男女間においても愛でも「SEXよりも心の対話」が重視されるようになった。それは肉体を介した「刺激」よりも心と心の「調和」が人間の欲求を満たす時代になってきている。大げさに言うならば心と心が繋がっていれば、手と手を繋いでいるだけでもSEX以上のエクスタシーを感じることが出来るのである。
操体の臨床においても「楽」から「快」へ、「刺激」ではなく「接触」を重視しなければ間に合わない時代となっているのである。ここで書いておきたいのが「楽」と「刺激」には最初に己の思考(自我)が存在してしまうという事である。それに対し「快」と「接触」には自我はなく相手との調和によって成り立つものなのだと思う。それは「体罰」でも同じ事が言える。「体罰」を行う者は自分の想いを相手に伝える為の「コミュニケーション」の一つとして行ってしまったのだと思うが、それは己の「エゴ」に過ぎない。必要以上に相手を干渉するから自我が働くのである。「なぜわかってくれないんだ」といった己のエゴよりも相手を成長をありのまま受け入れる器量と必要以上に干渉しない「愛」がこれからの指導者には必要だと思う。

こういった時代の変化に対応する為には私達は己の思考回路をシフトチェンジしていかなければならない。それは先日も述べたように「動物的な思考」から「植物的な思考」へのチェンジであり、自分にも相手にも干渉し過ぎない自分自身で在るということだと私は思う。それは操体の学びにおいても同じ事が言える。植物のように自分に多くを求めず、ありのままの自分と向き合い学んでいくことが学びと長く、深く付き合っていける大切な心得なのだと思う。