東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

般若身経から始まる。・・・2

おはようございます。

 昨日は、般若身経の重要性について、身体運動の法則として、
健康の基を正し、自然体としてのあるべき姿を問いかけ、それが
成り立つ理と約束事が示されており、体感をとおして理解して
いくことが大切と書かせていただきました。

 やはり、これがなければ操体の臨床(臨生)は成り立たないと思う。
自然体としてのあるべき姿を、体感をとおして理解する、という取り
組みがなければ、からだがなぜ不快というサインを発しているか、
目星はつかないと思う。それでは視診は成り立たないし、触診するに
しても、やたらとつっつきまわすことになってしまうと思う。

 また動診こそ、その最たるもので、身体運動の法則の、体感を
とおしての理解が大変重要となる。しかし、動診、操法をテクニック
で捉えれば、ないがしろにされてしまうと考えられる。
臨床家のなかには「辛い方から楽なほうに動きを操る方法」である
第1分析を臨床で行い、「般若身経」は別個のものとして、健康体操
の様なかたちで、指導している方も居られるのではないだろうか。
しかし、それではもったいない。

動診、操法をテクニックで捉える、という壁を打破しなければ、
その人の操体臨床に未来はないと思う。橋本敬三先生の行なっていた
第1分析は、確かに効果が高いものであったと思う。それは、「般若身経」
という、からだの使い方、動かし方の自然法則を踏まえた上で、全身が
連動して調和に向かい、歪みが正されるようにしていたからなのだ。
そこに自分がどうこうしようという企みはない。橋本先生の語録から
引用すれば「からだは、治るように出来ている。俺が決めたんではない。
そのように出来ているから仕方がない」ということであり、正に恐ろしき
は自然法則なのだ。

それを、自然法則を踏まえずに、コリをとってやろうとか。どこ
どこの関節を矯正してやろうとか、臨床家の都合で行なっていれば、
それなりの報いがあっても仕方がないと思う。
以前、電話で「操体法って痛いんですよねぇ」と問い合わせを
受けたことがあったが、痛い操体法などないのだ。あろう筈がない。

第1分析は、誰でも簡単に効果をあげる事が出来る、というニュア
ンスで普及した面がある。その効果の高さにビックリという体験談は
数多くある。しかしその実、奥の深いものであり、効果をあげ続ける
には、その熟練度を必要とした。本人は、橋本先生のような名人と
同じ事をしているつもりでも、内容は全然違うものとなっている場合
もある。柳の下にドジョウは何匹もいない。誰でもすぐに簡単に出来る、
を継続させるのは困難なのだ。

しかし、操体法はキチンと取り組めば、誰でも効果をあげられるもの
でなくてはならない。それには表面ではなく、その奥にあることから
普及させなければ、誰でも効果をあげられる操体法とはならない。
その奥にあること、その真理とは、楽ではなく快であった。辛い方から
楽な方へ動きを操る第1分析から、一極微の動きから快(気持ちよさ)を
ききわける第2分析に深化と進化が成されたのは、誰でも効果があげられ
るという面からも、必然であったのではないかと思える。

明日へつづく。


*一極微とは、一にして二、二にして一の太極的な調和を意味する
言葉として創り出された。一極微の分析においては、快適感覚のきき
わけがなされれば、即、操法に入れる。
       〜三浦寛先生著「操体臨床への道しるべ」より〜