東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ヨーガと操体論(三日目)

 操体が説く「快」にはインド的哲学観が見え隠れする。操体ではカラダに不調を感じているとき、症状、疾患にはとらわれず、とにかく快を持ち込もうとする。そしてその手段として「動診」なるものが存在している。この動診というのは物理的な快への便法であって、哲学的には快そのものの論拠にはなり得ない。

 病気というものを操体的に見ると、病気という不健康が在るのではなく、健康の不在であるという見方をする。どういうことかというと、健康の裏側には必ず不健康があり、不健康の裏側にも必ず健康がある。健康と不健康は同じコインの裏表であって、どちらも単独で存在することができないものだ。もし不健康に重心が傾けばコインは不健康の「面」になり、逆の健康に傾けばコインは健康の「面」になる。ということは、どちらかに重心を移動してやればそれが適うのである。それは病気のとき、健康を持ち込んでやれば、健康になり、健康のとき、不健康を持ち込めば病気になるという理論が成り立つ。

 操体スーパー・バイザー、三浦寛師は言う、「病気になりたい、というような不健康な言葉を毎日繰り返して自身に発していると、間違いなく病気になれる」と。逆説的には病気のときに健康的な言葉を自身に発すれば健康になるという理屈にはなるが、そうはうまくいかない。病気になろうと思えば言葉でも十分イメージすることができ、想念もそのように変わってしまう。それはたやすい。ところが、健康になろうと思って「健康になる」と、いくら言葉を発してみても、たやすくイメージできるものではない。まして健康の想念など心に上ってこないだろう。

 そこで身心に健康を持ち込むためにはどうするのか。それが「快」である。快を心の内に呼び込んでやればいい。操体では動診という手法を使って快を味わえるように誘導するのであるが、これがまさしく病気に対して健康を持ち込むことになるのである。健康状態というのはまさに気もちよさ、心地よさを味わっている状態なのだ。 屋根の上で気もちよく昼寝しているネコを見たことがあるだろう、ネコのおなかは大きく膨らんで、からだ全体でゆったりと呼吸しているのが見てとれる。まさに心地よさの中でくつろいでいるのが感じとれる。

 人間でも同じだ。赤ん坊の寝顔を観察したことがないだろうか。このうえもなく幸福感に包まれたような寝息とともに、見る人をも幸せにする、そのような感じを覚えるのは私だけではないだろう。三浦スーパー論にある「多幸性」とはこのような比喩で説明できないだろうか。本当の意味において赤ん坊は、心身とも気もちよさの感覚に委ねているのである。このように赤ん坊というのは感じる心とともにやってくる。

 それから年月を経て、赤ん坊が社会の一部になった瞬間、社会人病といわれる「神経症」が作用し始めるのだ。せっかく感じている存在として生まれ、万物を感じていたのに、思考する存在に変わってしまう。月日が我々を「感覚」と「思考」に、二つの別々のものにしてしまった。

 このことが人格の内部の分裂、すなわち基本的な「神経症」である。社会の一員となるや否や「思考部分」と「感じている部分」との二つになってしまい、その内、感じている部分とは同化しないで、思考部分と自己を同化してしまう。感じることは思考よりも在りのままであるが、社会によって思考が養い育てられてしまった。この思考とは、いわば分裂のテクニックであり、そして感覚というのは統一、統合に導いてくれる唯一のツールでもあるのに。

 話が脱線してしまった! 身心に健康を持ち込むというパラドクスの話に戻そう。それは快感覚こそ不健康の反対側にある健康という、その両方がコインの裏面なのだということだった。病気の正反対である健康という想念を持ち込む意味はここにある。健康、不健康は一枚のコインの裏表であり、まったく同じエネルギーでできているから、持ち込んだとたん、たちどころにエネルギーが変化する。正反対のものを持ち込めば、それが吸収してしまい、突然、自分の内側に「快」という変容が起こっているのがわかる。するとどうだろう、からだの疾患はなくなり、健康が湧き上がってくるではないか。このようにいつも背中合わせにあるからこそ病気になったり、健康になったりできるのだ。

 今述べたことはすべて因果律という観点から考えたことで、たとえば水は加熱すると蒸発する。それは熱が原因であるからで、熱がないと水は蒸発しない。これは因果的なもの。つまり、熱が蒸発という現象に先立って必要な条件となっているからだ。しかしヨーガとはもっとそれ以上を意味する。ヨーガの瞑想は因果的ではない。だから、どんな方法も可能になる。方法というのはすべて単なる方便にすぎない。それはただ、その出来事が起こるための状況をつくり出しているだけで原因となっているのではない。

 三十五年ほど前になるが、私は『自我の終焉』という本に魅せられて、その著者であるクリシュナ・ムルティのもとへ旅したことがあった。その講話で彼は言う、「どんな方便も、どんな方法も不要だ!」と。また、禅の師家たちもこう言っている、「どんな努力も不要だ! それは努力なしのことだ!」と。それは確かに真実に違いないだろう、だが、これは回顧的な見方である。その方便が不要だったということを後になって知るわけだから、まだ障害を乗り越えていない人にとっては実に馬鹿げた話だ! 大概は、この障害を乗り越えていない人たちに話しかけなければならないのだから。私はその講話の席にあって、彼から感じる波動は「何かがおかしい、これは違う」と思わざるを得なかった。

 しかし、そんな不必要な方便が編み出されてきたのには、それなりの理由がある。我々が瞑想に入ろうと考えても、そう簡単に入ってはゆけない。というのも、その考えている部分が、瞑想に入るのを許しはしないだろう。我々は考えずには何ひとつできない、これがジレンマになる。たとえ「私は考えないぞ!」と考えたところで、それもまた思考のうちだ。このように言い張っているのも心の思考する部分なのである。さてどうする? 禅師はこう言う、「跳べ! 何も考えてはならない!」しかし、我々は考えずに跳ぶことなどできっこない。それはそうだろう。それだからこそ方便が必要になるのだ。方便は人為的なものであるが、思考という理屈好きの心を鎮めて、我々を未知なるものへと押しやってゆくことができる。
明日につづく