東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

学びの境界線

昨日のブログで、「師の学びには境界線がない」というようなことを書きました。
今日はそのことに関連して書き進めたいと思います。

「学びの境界線がない人物は?」とイメージしてみると
私の中で師匠の次に真っ先に浮かんでくるのは
名画「モナリザ」でも有名なイタリアの芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチです。
ご存知の通り、彼の絵画における才能は、彼の成してきた業績のほんの一部でしかありません。
ウィキペディアを参照すると以下のようにざっと12の分野に関しての業績が挙がっています。

 1、絵画
 2、彫刻
 3、建築
 4、音楽
 5、科学
 6、数学
 7、工学
 8、発明
 9、解剖学
10、地学
11、地誌学
12、植物学 など

最後に「など」と書かれているように
実際にはこれらの分野以外にも、公表されなかった研究をしていたとあります。
驚くべきダヴィンチの好奇心。
一目、彼が学んでいる姿を見てみたかったと思うこともあります。

と、知の巨人を前に、ここでふと壮大な疑問が湧いてきました。
そもそも何で「学問」は生まれ、発達したきたのでしょうか。
色々諸説はあると思いますが
私はそのひとつに「わかりたい」という素朴な好奇心が挙げられると思うのです。

「わからないことを、わかりたい」。
そんな疑問と発見の繰り返しの結果
人間はミクロの世界のことも
マクロの世界のことも少しずつ把握できるようになった。
人間の創造力とそれを現実化させていく技術の革新は
今日、時に驚くべき速度を見せながら進んでいるように感じます。

しかし、ここでもう一度立ち止まって考えてみます。
「人類」は長い進化の歴史を歩む中で、わからないことが少しずつわかって来て
それに伴い学問も進歩し続けてきました。
でも縮尺を変えて「私自身」を振り返った時に
つい最近まで心の底から学ぶことを愉しいと思えていなかった事実。
人類の歴史の中に生きている一人として、これは何故なんだろうと思うのです。

従事している「仕事」に関係がないから?「必要」がないから?
自問自答してみるとひとつの大きな原因に気付きました。
それは何かを学んだとしても
自分自身との「つながり」が見えてこなかったからではないかということです。

学問はどんどん進歩しているのに
そのことと自分自身との「つながり」が見えてこない。
このようなことは私に限らず、少なからず思い当たる方もいるのではないでしょうか。

元々は「わかりたい」という素朴な好奇心から生まれて発達してきたはずの学問に
気付かない内に「自分自身と関係がないから」と境界線を引いてしまうことがある。
どうしてこんなすれ違いが生まれてしまうのか。
そこには学問が進歩する過程で
見失い、置き忘れてしまった大切なものがあるからだと思うのです。

見失ってしまったもの
置き忘れてしまったもの
そして人間がわかりたくて学び続けてきたものは何か。
私にはそれが操体で教えていただいているところの「真理」であるように感じるのです。

明日に続きます。