東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

神経症7

 昨日のつづき
 子どもらは、現実の体系に加えられる攻撃が蓄積するにつれ、現実の意識が押しつぶされはじめる。ある日起こった、ある出来事がきっかけで神経症になることもある。たとえば、ある日、子どもを託児所へ預ける。それはもう何十回目かのことで、それ自体、決して精神的な外傷を与える性質のものではない。しかしそれが、現実と非現実のバランスを逆転させ、子どもは神経症になってしまうこともある。こうした出来事を原初的情景と呼んでいる。そのとき小さな子どもは、これまでに積もり積もってきた軽蔑され、拒否され、剥奪されてきたという思いから、「あるがままの自分では愛してもらう望みがまったく持てない」と、はじめて悟ることになる。その時その子どもは、自分の感情から分裂することによって、破滅的な認識から自分を守り、ひっそりと神経症の世界に滑り込んでいくのである。しかしこの認識は意識されるものではない。

 子どもは両親の周りで、やがて他の場所でも、両親が期待している線にそって振る舞うようになっていく。子どもは両親の言葉を口にし、両親のやり方で物事を行い、見かけの行為をしているのである。要するに子どもは、自分の本当の必要や望みにしたがって行動しているのではない。わずかな期間のうちに、神経症的な行動が自動的に行われるようになる。神経症には自分の感情との断絶、すなわち、分裂が伴ってくるようだ。

 両親が子どもに攻撃を加えるたびに、現実と非現実との間の溝が深まってくる。子どもは自分を感じないために、自分の体の禁じられた部分には触らず、活気を漲らすことも、悲しげな様子を見せることもなく、ただただ与えられた筋書き通りにものを言い、行動しはじめる。しかし分裂は攻撃に弱い子どもには必要なものである。それは有機生命体が自らの健全さを維持するための反射的、自動的な方法である。したがって、神経症は有機生命体の発達と精神物理的な統合性を破滅的な現実から守るための防衛でもある。神経症の人間はまがい物の人間であり、そうなったのは、存在しないものを獲得するためである。愛が存在していれば、子どもはあるがままの姿をとるであろう。愛とは、あるがままの姿を認めることであるのだから。そこで、ひどい精神的外傷を受けるようなことが何ひとつ起こらなくても、神経症にかかる。

 両親が自分たちの上品さを証明するために、子どもに対して各センテンスの終わりに、「お願いします」とか「ありがとう」という言葉をつけるように強要するだけで神経症が芽生えることもある。面白くないときや泣き出したいようなときに、ぶつぶつ言うのを許されないことが原因で神経症になる場合もありうる。自分たちが落ち着かないので、すすり泣きを急いで止めさせようと両親はしがちである。自分たちが立派な人間であることを証明するために「ちゃんとした女の子は、かんしゃくを起こしたりしないものです」とか「ちゃんとした男の子は、口答えなどしないものです」とか言って、腹を立てることを許さない両親もいることだろう。

 学校で詩を朗読させられるとか、難しい問題を解かされるために、子どもが神経症にかかる場合もある。どんな形をとっているにしろ、子どもは自分に何が要求されているかをきわめて素早く読み取ることができる。それを実行するか、それとも別の道を選ぶか。両親の望み通りの人間になるか、それとも別の人間を選ぶか。愛情のない世界を選ぶか、それとも、愛情とされている承認、微笑みをとるか。最後には見せかけの行為が子どもの生活を支配するようになる。それは両親の要求に仕えるための儀式の実践であり、言葉によるおつとめなのである。

 このようなプロセスで発症した神経症を医学や医療は今後、どのように考えてくれるのであろうか。神経症であれ、何であれ、人間が自分の病気や身体障害から回復しようと思えば、自分自身である程度責任を負わなくてはならないということを自覚すべきである。この「患者の責任」という観念はもちろん目新しいものではない。しかしこの観念の背後に潜む思想全体を、操体の快理論ほど見事に解き明かしたものは稀である。操体は西洋医学に関しては素人だが、その見解はいくつもの医学界でも受け入れられるようになってきた。ストレスの性質について、あるいは病気に対する人体の抵抗力を引き出す精神の力についても主な医学や心理学研究者の重要な発見と一致している。これらから言えることは、操体も着実に日本医学としての道を歩んでいるということだ。今や操体は人体の化学作用を変化させ、障害や病気に対する人体の自衛力の発動を促す正真正銘の治療手段となっている。