東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「無心」

今日は私の好きなコトバを一つ紹介したい。

「無心は、いっさい心なきなり」(黄曝『伝心法要』)

無心は、いっさい心なきものである。
「無心の心」は、心に何もとどめないことである。心に生じてくる、いっさいの観念が、まったく何もないという状態の心だ。
「私が」ということも、「あなたが」ということもない。
何も求めることもない自由な心の状態にしたい。

「禅のことば 禅のこころ 武田鏡村」(第1章 生きる知恵を学ぶ P28より)

三浦先生が最近、講習で言われるコトバがある。

「自分を主語ではなく、からだを主語にしなさい」といわれる。

操体の臨床は他の手技療法と大きな違いがある。

それは「感覚を聞き分けること」である。

「感覚を聞き分ける」ということは患者のちょっとした心身の変化を常に聞き、感じて、それに適うメニューを提供していかなければならない。そのためには自分を主語にしてしまうと相手の感覚の聞き分けを無視することになるので、私は常に上記に記したコトバを念頭に相手のからだと向き合うようにしている。

やはり臨床において自分が主役になると相手のことよりも「どうやって治してやろう」「こうすればもっと良くなるはず」と自分の手柄を立てたくなってしまうものだ。特に私のような臨床経験がまだ浅い人間にはこうした思考は必ず働き、自分を主役にしてしまう。
そうならないように臨床の空間には自分や自分事を持ち込まず、無心で相手のからだとだけ向き合えるように努めている。

ここで一言付け加えておきたいのが、「無心」というのは何も考えないことではない。相手のからだとこころを、そして空間をまるごと一体受け入れられる心をいう。

こういったことを生かせるのは臨床だけではない。己の生き方にも十分に生かせることである。

人間が生きることにおいて自分を主語にしてはならない。自分が主語になってしまうと誰かしらに迷惑をかける。別に誰かの為に生きろというわけではない。自分の為で良い。ただ、自分のしていることが間接的でもよいので誰か(何か)の為になることをするのが、自分を主語にしない生き方なのだと思う。